狗の大将
東京都渋谷区 国立代々木競技場
此処は「国立代々木競技場」、最初の建築から140年近く経過しており、現在は改築作業中の為、使用が不可となっている。建物は作業用の足場に覆われているが、今は作業開始前の時間である為、誰も居ない。
そして周囲は、強面の男たちが取り囲んでおり、中に誰も寄せ付けない様にしている。そして改装中の第一体育館では、静寂の中をコツコツと靴音を立てながら歩く男が居る。興梠紗門だ。
彼は疎らに電灯が点いたアリーナの中を歩く。そして何処かに潜んでいる筈の、自分を呼び出した人物に向かって声を上げた。
「おい! 俺は来てやったぞ! 欲しいのは金か!? 幾ら欲しいんだ!」
世間の清廉潔白なイメージと異なり、紗門は唐突に金の話題を口にする。彼を此処へ呼び出した書状には、彼が犯した強姦事件の証拠となるもの、すなわち、彼が18歳の時に作った子供が居ることと、親子の証明同然の証拠があることが書かれていたのである。
そんなものを世間にばらまかれたら身の破滅だ。故に彼は手紙に指定された場所へとやって来た。周囲は子飼いの反社会勢力で囲い、相手を逃がさない様にしている。改装中の為、屋内の監視カメラが作動していないこの場所は、彼らにとっても都合が良かったのである。
「フフ・・・フフフ・・・」
「!」
その時、何処からか声が聞こえて来た。紗門がその声のした方へ振り返ると、1匹の中型犬が観客席の階段を降りていた。しかし、その狗は客席の後ろにサッと姿を隠してしまう。
「・・・金? 別にそんなものは欲しくないよ。欲しいとすれば・・・そうだな、お前が全ての罪を認め、怜華さんへの謝罪と共に額を地面に擦りつける様だ」
再びどこからともなく声が聞こえて来た。紗門は挙動不審になりながら、周囲をキョロキョロと見渡す。
「怜華!? そんな女は知らない! お前は一体誰だ! 出て来い!」
紗門は騙した女の名前など一々覚えてはいなかった。ただ声だけが聞こえる不気味さに怯え、不安感が彼の身体を支配していく。
「・・・そうか、もう良い」
声は消える。そして観客席に1人の男が現れた。それは他でも無い、狗寺光広だった。彼は一歩一歩客席を降りていき、競技場の上に立つと、怪訝な顔をしている紗門と対峙する。
「・・・お前か、あの怪文書を送りつけて来たのは!」
「・・・怪文書? あれは事実だ、お前が犯した罪の・・・!」
狗寺はあくまで冷静な態度を崩さない。しかしその目は血走り、底知れない怒りを在り在りと示していた。
「・・・フンッ、そんな昔のことなど覚えちゃいない! しかしまさか、嫌々登録した骨髄バンクから、そんな過去があぶり出されるとはな! おい、お前ら!」
「・・・!」
紗門は一切悪びれることは無かった。そして彼はこの会場内の各地に潜ませていた、三下たちを呼び寄せる。明らかに一般人では無い彼らの見た目は、紗門が反社会勢力と繋がりがあることを証明していた。
「・・・こいつをかたづけろ。後は頼んだ」
紗門はそう言うと、先程までとは打って変わった余裕ある表情で、後ろへ下がって行く。それと入れ替わりで、人相の悪い輩がぞろぞろと狗寺の周りを取り囲んだ。彼は最初から狗寺を殺すつもりだったのだ。
「・・・チッ」
男たちの手には刃物や銃器が握られている。本来なら絶体絶命、常人ならば恐怖の余り震えが止まらなくなるだろう。しかし,狗寺は違った。彼は舌打ちをすると、ぎらついた目で周囲を見渡した。
「ウオオオオッ!」
改修中の競技場から、怒号が聞こえて来る。しかし、その怒号は一瞬のうちに断末魔へと変わっていった。
・・・
東京都内
その頃、東京都内では数多の警察車輌が動き回っていた。彼らは皆、興梠紗門と狗寺光広を探している。そして真実を突き止めた拾圓と多村は、公ヶ崎、そして六谷と共にパトカーに乗り、紗門の事務所に向かっていた穂積と弐条との合流を計っていた。
『こちら穂積、紗門の事務所にも手掛かり無しだ』
「分かった、此方も何か情報が入り次第、其方に伝える」
助手席に座る多村はそう言うと、穂積との無線を一端終える。その直後、本庁の合同捜査本部から無線が入った。
『此方合同捜査本部! 興梠紗門の所在地に関して、都市統合捜査支援センターから情報が入った。紗門氏が所有するナンバーの普通乗用車が、渋谷区代々木競技場付近の監視カメラに写っていたと!』
東京都内の監視カメラを一元的に管理している部署から、紗門が所有する車が見つかったと報告が入ったという。
「じゃあ場所は!」
「改修中の代々木競技場ですね! 確かにあそこなら人目につかない!」
拾圓と多村は紗門と狗寺の居場所を察知する。運転席に座る拾圓は車を手動運転に切り替えると、サイレンを鳴らしてアクセルを踏み込んだ。
・・・
東京都渋谷区 国立代々木競技場
代々木競技場第1体育館は、鮮血に染まっていた。場内にはヤクザ者たちの死体が散乱し、そのどれもが引き裂かれ、元の形を残していない。
体育館の中心には、返り血に染まった狗寺が立っていた。そして此処で起こった惨劇の一部始終を見ていた紗門は、腰を抜かして地面の上に倒れ込んでいる。
「ば・・・化け物!」
「・・・フフフ」
狗寺は不気味に笑い、顔をくしゃくしゃに歪めた紗門を見下ろす。そして一歩一歩、紗門に向かってゆっくりと歩き出した。
「ヒッ、ヒィーッ! た、助け・・・!」
足腰が立たない紗門は、冷たい床を這いつくばりながら逃げようとする。しかし、思う様に手と足が動かず、あっという間に狗寺に追いつかれてしまった。彼は血を浴びた狗寺の顔を見上げる。狗寺は変わらず笑みを浮かべていた。
「頼む! 助けてくれ! 金なら欲しいだけ払う! 謝罪もする! 議員も辞める! 自首もするから! お願いします、お願いします・・・! 命だけは・・・ッ!」
紗門は顔から涙と鼻水を垂れ流し、命乞いを始めた。そこには世間に見せる精錬な雰囲気は全く無く、ただの愚者でしかなかった。
「・・・」
狗寺はその醜さを目の当たりにして、堪らず顔を歪めてしまう。しかし、彼は紗門の命を救う気など無かった。ゆっくりと右腕を上げて、その命に照準を定める。
だがその時、体育館の扉を開ける音がした。
「その言葉、しかと聞いたぞ! 興梠紗門!」
「!?」
狗寺と紗門は声のした方へ視線を向けた。そこには代々木競技場に駆けつけた、捜査4課7係の拾圓とその部下たち、そして公ヶ崎の姿があった。
「・・・武市!」
「光広・・・」
狗寺はこの計画を共に立案した親友の姿を見て、驚きを隠し切れない。公ヶ崎武市は両脇を弐条と六谷に挟まれて、此処へ連れて来られていた。
拾圓は狗寺と紗門のもとへ近づく。そして胸のポケットから警察手帳を取り出した。
「警視庁捜査4課の拾圓道雄と申します。興梠紗門、そして狗寺光広、貴方方には署までご同行願います」
「た、助かった! こ、こいつを早く逮捕してくれ! イカレてるんだ、こいつ!」
警察の登場にホッとしたのか、紗門は狗寺を指差しながら、彼の身柄を確保するように急かした。しかし、拾圓は冷酷な目つきで紗門を見下ろす。
「逮捕されるのは貴方も同じですよ、紗門さん? 公ヶ崎怜華さんの集団強姦事件は、まだ時効が成立していません。それに指定暴力団との関係についても、たっぷりとお話を聞かせて頂きましょうか」
「なっ・・・!」
紗門は口をあんぐりと開けて愕然としていた。そんな彼を余所に、拾圓は懐から手錠を取り出そうとした。
「おい・・・誰がそいつを生かして帰すことを許した?」
「・・・」
紗門を連れて行こうとした拾圓に対して、狗寺は強烈な殺気を放っていた。ヤクザ者数十名を手に掛けた彼の心は最早、医師でありながら、人を殺めることに対する抵抗感が薄れていたのである。
「貴方も・・・勿論我々と共に来て頂きますよ。例え、この男が卑劣な犯罪を犯した者だとしても、それを裁くのは『法』の役目です。私刑で殺人を犯したのは、明らかな過ちです」
人ならざる修羅と化した狗寺に対して、拾圓は毅然とした態度を崩さない。彼は正義を暴走させて殺人計画に手を染めた、狗寺と公ヶ崎を非難する。
「五月蠅い、邪魔をするなら・・・そこのクズごと、お前の身体を喰らってやろう!」
「・・・!!」
その瞬間、狗寺の周囲に風が巻き起こる。彼の両目は赤く輝き、口が獣の様に裂けていく。そして狗寺の身体は見る見るうちに巨大化していき、最後には全長が15mは超える真っ白な“化け狗”と化した。
「これが・・・狗妖怪!」
流石の拾圓も顔を青ざめ、その禍々しくも神々しい姿を呆然と見上げる。当の紗門は気を失い、泡を吹いていた。この時、遅れて九辺が現場へ到着する。彼女に続いて捜査1課と4課の応援が続々と第1体育館へと現れた。
「異世界テラルスに伝わる狗の大妖怪・・・! 本性を現したわね!」
事態を察した九辺は出し惜しみする間もなく、自らが持つ力を全開にする。彼女は身体から9本の尾を現した途端、狗寺に向かって先制攻撃を仕掛けた。狐火を纏いながら、彼の顔に向かって飛びかかる。
「破亜亜亜アァッ!」
「・・・グッ!」
強烈な妖火が狗寺の顔を襲い、血が噴き出して来る。しかし狗寺も負けじと鋭い爪が生えた前足で、なぎ払う様なパンチを繰り出した。
「!!」
その攻撃は空中で身動きが取れない九辺を襲い、彼女は観客席まで吹き飛ばされてしまう。
「・・・九辺! ・・・チィッ!」
六谷が叫ぶ。蜘蛛の亜人族の血を引く彼は、両手から蜘蛛糸を伸ばして狗寺の拘束を試みる。他の刑事たちも彼に続いて、1課の者と警備アンドロイドたちは電撃弾で、4課の者は魔力による攻撃を開始した。だが蜘蛛糸は容易くちぎられ、電撃は頑健な体毛と魔法防壁に阻まれ、中々ダメージが通らない。
「お前たち警察には恨みは無い。だが邪魔をするなら容赦はしない!」
「!」
真の姿である化け狗の形態となった狗寺は、駆けつけた刑事やアンドロイドに向かって咆哮を放つ。それは強烈な衝撃波となって彼らに襲いかかった。
「うわあああ!」
圧倒的な強者、手も足も出ない程の力の差、その差をまざまざと見せつけられ、人々の目に絶望の色が灯る。しかしその直後、観客席に吹き飛ばされた九辺が立ち上がり、再び狗寺に向かって飛びかかった。
「覇亜亜亜ァッ!」
「・・・グッ!」
そして彼女が放った狐火は、再び狗寺の身体に傷を残す。床に着地した九辺は三度、狗寺に向かって飛びかかって行く。
「この中で狗の大妖怪に対抗し得るとしたら、あの人だけだ! 皆さん、九辺さんを援護しましょう!」
気絶した紗門の身柄を抱え、後方へ退避していた拾圓は、この場に居る全員に九辺の援護を命じた。彼らは痛めつけられた身体に鞭打ち、再び攻撃の構えをとる。
「・・・待て!!」
「!?」
その時、刑事たちの背後から1人の男が飛びだし、狗妖怪と化している狗寺の前に立った。その男は他でもない公ヶ崎だった。九辺を始め、刑事たちは狗寺への攻撃を止めた。7係のメンバーは突然のことに反応が遅れてしまう。
狗寺と対峙する公ヶ崎は両腕を左右に大きく広げ、目尻に涙を浮かべて、喉を潰す程の叫び声を上げた。
「・・・すまなかった、狗寺!! 俺が、俺が悪かった!! お前を・・・俺の復讐に巻き込んだ! 全て俺が悪いんだ!! だから頼む・・・! もう、止まってくれ!!」
「!!」
このままでは、狗寺は刑事たちを殺してしまうだろう。正気に戻った公ヶ崎は、親友である狗寺がこれ以上罪を重ねていくのを見ていられなかったのだ。
狗寺は予期せぬ中断を申し入れられたことで動きを止める。拾圓たちも固唾を飲んで事の推移を見つめていた。
「・・・」
動きを止めた狗寺は変化を解いていく。巨大な狗妖怪の身体は瞬く間に縮んでいき、元の人間の姿へと戻っていった。そして人間へと戻った彼の表情は、穏やかな笑顔だった。
「・・・違う、巻き込まれたんじゃない。これは俺の意思だよ、武市。それに俺は決めていた。最初に興梠を殺してから、もう“人間”には戻らないと」
「・・・!?」
狗寺は既に人間として生きることに見切りをつけていた。元々、狗の大妖怪の血を引く彼は、人間と妖怪を行き来することに違和感を募らせていたからだ。
“狗の大将”と呼ばれる亜人族である彼の父親は、日本国が地球へ戻る間際に海を越えて身一つで日本国内へ不法入国した。その後20年近く、日本政府からの“不法入国者探し”から逃れ、そして東京で1人の女性と出会い、2人の子供である光広が生まれた。その女性の姓は奇しくも“狗寺”と言った。
父親は公式には存在しない人物だ。故に光広と彼を育てた母親は、周囲の視線や金銭的な苦労に晒され続けた。自分の存在が妻と子の負担になっていることに耐えられなかったのか、光広が12歳の時、父親は姿を消した。光広は母親を救おうと、医師になることを志し、奨学金を借りながら遂に医学部の卒業を果たしたのである。
しかし、狗妖怪の血が目覚め始めた高校生の頃から、光広は周囲の人間と自分の間に隔たりを感じる様になっていた。その1つとして、同年代である筈の公ヶ崎と狗寺を見比べると、狗寺の方が20歳近く若く見える。
「母も前に亡くなった。俺にとって、人間を続ける意味は無くなってしまったんだ。だからお前が俺を巻き込んだんじゃない。俺がお前を利用したんだ。
だが、俺にとって怜華さんが大切な存在であったことは本心だよ。だから、今そこで倒れているあいつを噛み殺してやりたいのは山々だが、お前が止めるならば仕方が無い。俺はもう・・・復讐は止める・・・!」
「!」
狗寺は興梠紗門の殺害から手を引くという。公ヶ崎がもう良いと言った以上、彼の復讐心も鎮火したのだろう。
「じゃあな、武市。もう2度と会うことは無いだろう」
「・・・なっ!?」
狗寺は突如として離別の言葉を告げた。その言葉が聞こえた途端、再び警察が慌ただしく動き始める。
「逃亡は許さない! 我々は元より、貴方の身柄を確保しに此処へ来たんだ! 法の裁きを正しく受けさせる為に・・・!」
拾圓は未だ気絶している紗門を床に横たえると、鋭い視線で狗寺を睨みつける。六谷や九辺をはじめとする7係の刑事たち、そして1課の刑事たちも、最後の勇気を振り絞って狗寺の周りを取り囲んでいた。
「武市、下がれ!」
「え・・・どわっ!」
狗寺は突如、公ヶ崎の身体を刑事たちに向かって突き飛ばした。六谷と多村が咄嗟に彼の身体を受け止める。
そして強烈な旋風を身体に纏うと、再び巨大な狗妖怪の姿へと変化した。
「人間の狗寺光広は今日死んだ! 人間でない俺に『法』など関係ない! もう人間に関わる気は無いが、どうしても俺を排除したければ『害獣』として“駆除”することだ」
「ま、待て! そんな理屈が通用すると・・・うわっ!!」
狗寺は背を向ける。拾圓は彼が逃亡しようとしていることを察知し、咄嗟に呼び止めた。だが再び強烈な突風が巻き起こり、此処に集まっていた刑事たちを尽く吹き飛ばしてしまう。
「がはっ・・・!」
全員が壁や床、観客席に叩き付けられ、気を失う。その中で唯一、身体を魔法防壁で素早くガードした九辺だけは、一般的な中型犬の姿になった狗寺が体育館から出て行くのを、虚ろな目で見つめていた。
〜〜〜
11月12日 警視庁 刑事部 部長執務室
万博テロ事件から12日後、ネオ・ベイサイド地区の東京万博会場では、万博の再開に向けて急ピッチで再建工事が進められている。そしてテロ組織を日本国内へ手引きしたチャン・ワンテクの処遇を巡って、朝鮮民国との溝は益々深まっていき、決裂は時間の問題となっていた。
そして今、捜査4課7係の拾圓道雄は、刑事部長の内川金雲の部屋へ訪れていた。テロ事件に伴って発生した興梠と古屋、そしてヤクザ数十名の殺人事件について、内川に報告する為だ。
「・・・実行犯の狗寺光広を取り逃がしたのは、大きな失態だったな」
「はい、申し訳ありません・・・」
普通の人間では束になってかかっても、手も足も出ない程の強さを持つ亜人族。戸籍に未登録だったことだけでも大問題であり、さらに狗寺を取り逃がしたことは、今回の一件で最大の失態と言っても良いだろう。
「狗寺光広については、既に全国へ指名手配を出してあります。そしてご命令通り、容疑については興梠釀苑と古屋壇司の2名の殺害のみとし、彼が“狗の大将”の血を引くことは一般には機密としました。
また興梠紗門が起こした9年前の集団強姦事件についても、捜査2課が本人から聴取を行い、共犯者の情報も聞き出しているところであります。公ヶ崎警部についても、本人が全面的に罪を認めている為、間もなく送検されるでしょう」
拾圓の報告を一通り聞いた内川は、小さなため息をつく。
「・・・うむ、分かった。ご苦労。下がって良い」
「・・・はっ! では失礼します」
報告を終えた拾圓は一礼すると、部長室の扉へ向かい、部屋から退出して行った。
その後、テロ事件に関する一連の事実が明らかになったことで、公ヶ崎武市と興梠紗門は送検された。興梠紗門に対しては9年前の「強制性交等罪」を立件され、ヤクザとの繋がりも大々的に報道された。後に9年前の事件の共犯者たちも次々と立件され、逮捕されていった。
他国のテロ組織を手助けをした公ヶ崎武市に関しては、「外患誘致罪」ないし「外患援助罪」の適応もあり得ると報道されたが、結局はそれらの適応は無く、「特定秘密保護法違反」として立件された。
そして殺害の実行犯である狗寺光広に関しては、上述の通り、彼が凄まじい力を持つ怪物だという事実は隠されたまま、全国指名手配が出されることとなった。彼が他国に目をつけられるのを回避する為の措置であった。
警視庁 捜査4課7係 オフィス
拾圓がオフィスに戻って来ると、そこには何時もの様に部下たちが居た。しかし、先日の事件で皆、大なり小なり負傷している為、身体のところどころに絆創膏が貼り付けてある。
「内川刑事部長へ報告してきました。皆さん、お元気そうで何よりです」
「当たり前ですわ、拾圓様。私は“九尾の狐”、あれしきの負傷など大したことはありませんわ」
1番怪我が酷かったのは九辺だったが、ただの人間との違いか、彼女の傷はたった2、3日で殆どが治っていた。
「そうですか、九辺さん。それは良かった・・・」
拾圓は優しげな笑みを浮かべると、オフィスの奥にある自らのデスクへ向かう。そして椅子に腰掛けると、弐条と穂積の2人が見ていたテレビのニュースに目をやった。
『今回の殺人事件の実行犯であるみどり大学付属病院の医師、狗寺光広容疑者は逃亡を続けており、その足取りは未だ掴めていません。警視庁は犯人確保に向けて捜査態勢の強化を掲げており・・・』
此処のところ、ニュースでは公ヶ崎と狗寺が企てた事件のことばかり報道している。爽やかな2世議員の暴かれた黒い過去と裏の顔、そしてその復讐の為に日本全国をテロの恐怖に陥れた刑事、それらは全てのメディアにとって、恰好のネタとなっていた。
「そう言えば、係長。あの公ヶ崎警部の子供さんは、一体どうなるんでしょうか・・・」
ニュースを見ていた弐条は、送検された公ヶ崎の孫、唯人の行く末が気になっていた。今はまだみどり大学付属病院に入院中だが、唯一の同居家族であった武市が逮捕された以上、彼の世話をする者が居なくなっていたからだ。
「治療については今まで通り続け、退院した後には警部の親類に引き取られることになりました。骨髄移植についても興梠紗門がドナーになることを了承したそうです」
拾圓の説明を聞いて、弐条は何処かほっとした表情をする。
「興梠紗門がドナーとは、警部としては複雑でしょうね・・・」
多村が呟いた。唯人の白血病は、紗門がドナーとして名乗り出ていた。紗門の心中は分からないが、恐らくは裁判において情状酌量の余地となる材料を作る為だろうと、拾圓を初めとする各関係者は睨んでいる。
とは言えども、長らく唯人の身体を蝕んでいた病魔が消え去るのは、素直に祝福すべきことだ。そして移植が終わるとき、彼は武市と会うことはまだ出来ないが、何時かは親子が再会する日が来るだろう。
全てを知り、成長した子が、服役を終えた親に対して何と声を掛けるのか、それはまだ、誰にも分からない。
斯くして、拾圓道雄の最初の事件である「興梠釀苑・古屋壇司殺害事件」は、計画犯の逮捕、実行犯の逃亡、3番目の殺人阻止、そして9年前の集団強姦事件の検挙という結末で幕を閉じたのである。
〜〜〜
2100年11月21日 神奈川県横須賀市 横須賀港
神奈川県横須賀市・・・古くより軍港として栄え、日米安保条約締結後はアメリカ海軍第7艦隊の母港ともなっていたその街は、日米安保の終了後も日本皇国海軍の軍港として、日本の国防の要衝となっている。
その港の一画に、全長500mを優に超える巨大艦が停泊していた。その艦の名は「扶桑」、海面からの離着水によって宇宙空間と大気圏を往復する再使用型宇宙往還機にして、地球唯一の飛行戦艦である。日本がテラルスから持ち帰った諸刃の剣であり、遙か未来よりもたらされた遺産なのだ。
日本皇国の繁栄は一重に、扶桑によってもたらされた「重力子制御」と「核融合」の技術、そして扶桑に保管されていた様々な遺伝子改良植物によって成り立っている。
そして今、艦の司令部である第1艦橋に2人の男の姿があった。
「ニュースで見ましたか、小野淵大佐・・・またアメリカが」
「ああ、国連安保理で今回も『扶桑の破棄』を発議したらしいな。インドとロシアへの根回しで外務省はてんてこ舞いだろう」
扶桑の艦長を務める日本皇国航空宇宙軍大佐の小野淵春太、そして副艦長の香月直弘中佐は、この「扶桑」を取り巻く国際情勢について話していた。
「国際連邦」加盟国の中には、「扶桑」を「大量破壊兵器に準ずる物」として見なし、その提出を拒否した日本政府を非難する国がある。かつては日本と強固な同盟関係にあったアメリカ合衆国もそういった国の1つなのだ。
日米安全保障条約の終了以降、アメリカと日本の関係は“同盟”から“仮想敵国”へと一転した。そしてアメリカは度々こうして、日本政府に「扶桑」の破棄を迫っているのである。
「地球唯一の宇宙戦艦、28世紀の科学が生み出したオーバーテクノロジーの塊、日本政府はこの艦を手にしてからおよそ60年、この艦の研究を精力的に進め、ついには『小型核融合炉』の自主開発、そして『重力子』とその操作方法の発見に至りました。この偉大な進歩によって、宇宙開発は日本の独壇場になったのです」
「扶桑」の研究と解析を進めた日本は、2068年に核融合原子力船の実用化を達成し、2071年には独自開発による再使用宇宙往還機の製造に成功した。これ以降、宇宙開発事業は日本の独壇場となっていく。
「ですが、我々はこの艦の全てを御し切れている訳ではない。特に艦の主機である『光子ロケットエンジン』、これだけは今後100年かけても解き明かすことは出来ないでしょう。結局は・・・未来の遺産に縋っているに過ぎないのかも知れません」
「扶桑」の主機は「光子ロケットエンジン」である。物質と反物質の対消滅で生まれた“光子”を限りなく100%跳ね返す鏡で後方へ跳ね返し、推進力としている。
尚、大気圏内や地球周辺を航行するならば、補機の「核融合パルスエンジン」の推進力だけでも事足りる。この艦はあくまで、太陽系の広範を航行することを前提に作られていた。
「それだけ、この艦には圧倒的な武力が秘められているということだ。『扶桑』の力をフルに使えば、現代のアメリカ軍など24時間以内に無力化できるだろう。国際連邦がこの艦を恐れるのは、確かに無理の無い話だ」
扶桑が持つ力は、21世紀末というこの時代には明らかに過剰なものであった。故に日本が国際連邦に加盟する時、「扶桑」の提出を猶予するという条件と引き替えに、艦載機を含めて、その軍事的利用を一切禁止するという誓約を交わした。
誓約が履行されているかどうかは、2年ごとに安全保障理事会の審査が入る。2076年に28世紀の技術を用いて、大気圏宇宙両用戦闘機「UF−3・ユニバースゼロ」を独自開発した際には、国連安保理が今までに無い程紛糾したという。
「誓約の審査が行われる年が来る度、アメリカや朝鮮民国はあれこれ理屈をつけて、『扶桑』の軍事不使用が遵守されていないことにしようとする。全く迷惑な話だ」
日本としては誓約に関して突かれる様なことをした覚えはない。それなのに毎度毎度「扶桑」の扱いでごたごたを起こす輩が出て来るのは、それだけ他国が扶桑を恐れているということを示していた。
「我が国は我が国の道を行くべきだ。その道に仇をなす者が現れるならば、全力を以て振り払うべきだと、私は思う」
この時代、皇国軍人の国家への忠誠心は高い。小野淵大佐は例え全世界が日本へ牙を剥こうとも、この国の為に戦い抜く覚悟を決めていた。
「私も同感です」
香月中佐も同じ覚悟を秘めていた。
この時代、日本を取り巻く国際情勢は非常に歪で、いつ何を切っ掛けに国際社会が敵に回るか分からない状況が続いている。
政府が宇宙開発の名の下、28世紀の技術を駆使して、地球の外へ勢力範囲を積極的に広げているのは、何時か来るかも知れない世界との決裂に備える為であった。
・・・
同じ頃 東京都江東区 ネオ・ベイサイド地区 東京万国博覧会 会場
この日、テロ組織の襲撃によって中断されていた「東京万博」がようやく再開された。入場ゲートには数多の人々が並んでおり、会場内も入場客で大盛況となっている。
その中には外国人観光客も大勢居る。オリンピック、ワールドカップ、そして万博などの国際的な行事の際には、外国人の入国が期間限定で大きく緩和されていた。そんな国際色豊かな人混みの中に、拾圓と多村の姿があった。
「テロのせいで客足が遠のくかと思ったが・・・」
「案外、集まってますね」
2人は万博警備の一環として、会場内を巡回していた。会場の各地には、「百目鬼族」の血を引く多村が、数多の目を飛ばしている。
この万国博覧会は「新世紀の夜明け」をテーマに、30カ国以上の国と地域が参加している。尚、テロ組織を日本国内に手引きした疑惑から、朝鮮民国館の営業は一時停止となっており、再開の目処は立っていない。
「しかし・・・着任早々、あんな事件に遭遇するなんて、拾圓係長も災難でしたね」
「いえ、まあ・・・この『4課』という場所がどういうところか分かりましたよ」
この「日本皇国」という国は、世界で唯一“完全な法治国家”としての体制を維持している。故に一見するとそう見えないが、その実態は未来からもたらされた超科学と、異世界からもたらされたファンタジーが入り混じる“混沌の世界”だ。
この2つの共存を支えるための砦、それが彼ら「捜査4課」なのである。