幻影のヨーロッパ
2103年12月20日 イベリア半島東部 カタルーニャ共和国 首都バルセロナ
「ヨーロッパ」・・・かつて数多くの先進諸国が位置し、世界の文化の中心地であったそこは、中東の動乱によって増え続けるイスラム難民と白人との「文化の衝突」によって、極右政党が台頭し始め、政情不安が起きつつあった。
それ追い討ちをかけるかの如く、「中国の没落」と「日本の消失」によって世界経済が崩壊した。各国政府は難民・移民への援助体制が維持できなくなったことで一気に方針を転換し、彼らを中東へ追い返そうとしたが、難民たちはそれに大きく反発し、結果として内紛が勃発した。
そして今、政情不安と民族紛争が続くヨーロッパに、日本国外務省から派遣された2人の査察官が足をつけた。彼らがいるのは地中海に面した国、「カタルーニャ共和国」である。彼らは装甲を有する公用車に乗って、首都バルセロナにある「日本皇国大使館」へと向かっていた。
「・・・」
2人の男は車窓から浮浪者と貧困層が闊歩する街の様子を見つめていた。22世紀の今、バルセロナの街の様子は大きく様変わりしていた。
世界経済崩壊の波はこの国をも容赦無く襲い、「スペイン王国」は混沌の渦の中に飲み込まれていた。そして経済の崩壊と同時に、独立運動を標榜する地域のナショナリズムの高まりが世界各地で発生したのである。それはここ「カタルーニャ」も例外ではなかった。破綻状態にあったスペイン政府は、カタルーニャの独立を抑制する力もなく、指を咥えて見ていることしかできなかったのである。
そして「異世界テラルス」からの帰還後、「カタルーニャ共和国」を独立国家として承認した日本政府は、かつてバルセロナに存在した総領事館を閉鎖し、新たな大使館を別の場所に建設した。
2人の男を乗せた公用車は、強固な外壁に守られた大使館の敷地内へと入っていく。運転手がドアを開け、彼らは車から降り、大使館の玄関へと足を進めた。
そして大使館の中へ入っていく2人を、現地採用のカタルーニャ人職員が迎え入れる。およそ20歳代前半ほどに見える女性であった。2人は彼女の案内に従い、応接室へと案内される。そして応接室の扉を開くと、そこには1人の中年くらいの日本人男性が待っていた。
「ようこそ、『在カタルーニャ日本皇国大使館』へ! 特命全権大使の真柴高虎と申します」
特命全権大使の真柴と名乗ったその男は、非常に友好的なムードで2人の来訪者を迎え入れた。彼らは真柴と握手を交わしながら、自己紹介を返す。
「日本皇国外務省大臣官房付監察査察室より派遣されました、査察使の徳佐影三と・・・」
「同じく、前林諭と申します」
2人の男はそれぞれ名前を名乗る。彼らは外務省から派遣された「監査官」であった。
外務省には、外務本省の各部局に対する監察や、在外公館に対する査察などを企画・実施する組織である「監察査察室」が存在する。彼らは各部局・各在外公館における経理面での不正のほか、組織運営や労働環境のチェックを行っている。
そして徳佐影三は監察査察室に名を連ねる傍ら、普段は「領事局国際安全対策課」に属している。国外で活動する邦人の安全確保を使命とするこの部署は事実上、外務省独自の「捜査機関」と言えた。
「これからこの大使館の運営状況や労働環境について色々調べさせて頂きます。我々の滞在期間はおよそ1週間くらいですが、監査そのものは何もないと思いますので、2〜3日で終わると思います」
徳佐は今後の大まかな予定について伝えた。
「ええ、どうぞ。よろしくお願いします」
大使の真柴は相変わらず笑顔で彼の説明を聞いている。監査官と大使の顔合わせは、非常に和やかなムードで終了した。
その後、徳佐と前林は応接室を後にする。そして大使館を出たところを見計らって、徳佐は前林に問いかけた。
「・・・どうだった?」
「表情と態度とは裏腹に、心の中は我々への敵意と焦燥感に満ちていました。1週間滞在すると言った時、“長い、厄介だな”と心の中で呟いていましたよ」
前林は真柴の心を“読んだ”結果について報告する。彼、前林諭は今回の監査にあたって「東京高等検察庁」から派遣された「検事」であり、他人の心を読むことができるテラルス由来の亜人種「サトリ族」の子孫であった。
「・・・彼らが隠しているもの、それは読みとれませんでしたが、この大使館が何か良からぬことをしているのは、間違いなさそうです」
「・・・俺もまさかとは思っていたが、君が言うのなら間違いないのだろう」
前林の言葉を聞いて、徳佐の疑念が確信へ変わる。この大使館にはあるスキャンダルの疑惑があった。
きっかけは「監察査察室」に送られてきた匿名のメールであった。それは間違いなくこの大使館の事務室から送られてきたものだったが、それには以下の様な告発文が添付されていた。特命全権大使 真柴高虎以下、公使や参事官などを含む5名の男性外交官全てが、数多の現地住民の女性と性的関係を持っているという。
「大使館員が現地住民と関係を持つことは、情報保護の観点から望ましいことではないが、あくまで民事上の問題だからな。事実、金にモノを言わせて、現地住民を囲う様なマネをしている外務省職員は他国の大使館にもいるが・・・」
その匿名の告発メールには、この大使館に勤務する者たちが、「結婚」をチラつかせて現地住民の女性と関係を維持していることが書かれていた。
「基本的に外国人が日本国内に居住するには、その場で帰化して日本国籍を得る『移民』しかない。それには所有財産や過去の素行などの面で厳しい審査基準があり、何より祖国との関わりを断つことが求められる。年間でも10人いるかどうかだ。だが日本人の配偶者として帰化する場合は、財産に関する縛りが消える。要は日本人配偶者の帰化はハードルが低くなる」
22世紀の現在、半鎖国体制下にある日本では「外国人の就労」が一切認められない。故に「在留外国人」という概念は消失しており、外国人に発行される査証は「外交」と「短期滞在」のみである。
しかし、日本人と結婚するとなれば、その配偶者に当たる日本人、及び婚姻の内容に問題がなければ、帰化への道が開けてしまうのだ。
「・・・そもそも今の時代、国際結婚自体がほとんど事例が存在しないから、あまり気にしていなかったが、そういった悪用を行う者も居るということか。確かにスキャンダルではあるが、これだけなら外務省は動かないだろうな」
訴え出る女性がいない限り、徳佐たちは動くことはできない。そして日本移住への希望を見せつけられている以上、訴えを起こす者などいないだろうと、彼は考えていた。
「・・・!」
その時、徳佐の隣を歩く前林は、大使館と外の世界を隔てる門の向こうに、こちらの様子を伺う視線があることに気づいた。それは10歳前半の少女のものであった。大使館を睨みつけるその少女は、前林が彼女に気づいたのを察知すると、サッとその場から消え失せてしまう。
「・・・どうした? 前林さん」
「いえ、何でも」
前林は少女のことは伝えず、言葉を濁した。だがわずか一瞬、目と目が合った刹那、彼は少女の心に「日本大使館」への激しい憎悪があるのを感じ取っていたのである。
〜〜〜
12月20日 在カタルーニャ日本皇国大使館
監査官である徳佐と前林は大使公邸のゲストルームを宿泊場所として充てがわれていた。そしてバルセロナ到着の翌日、2人は早速、大使館の監査を開始する。
彼らは今、大使館の事務室を訪れていた。パソコンにログインし、経理関係の記録を調べ、必要に応じてコピーをとっていく。そんな彼らの作業を、現地職員のカタルーニャ人たちが遠巻きに眺めていた。
現地職員のカタルーニャ人は公邸の勤務も含め、全員で12名在籍していた。そして料理人以外の11名は全員が女性であった。彼女たちは大使館の事務作業や公邸での清掃・雑務などに従事している。
「データを本国の会計監査へ送る。ざっとチェックして、不審な点は検出されなかったな」
徳佐は事務のパソコンに保存されているデータを、順次本国の外務省へ送信する。経理の監査といっても、実際は専用のチェックソフトで経理関係のデータを解析し、最終確認のために本国へ転送するだけの作業であった。パソコンは日本国内から持ち込まれたものであり、画面とキーボードが空中に表示される「ホログラムディスプレイ」になっている。
その時、大使館に務める現地職員の女性が2人のもとへ近づいてきた。彼女は微笑みを浮かべながら、2人に話しかける。
「・・・お疲れさまです。間も無く昼食のお時間となります」
前林は腕のスマートウォッチを見た。その画面には現地時刻で「12時10分」と表示されている。
「ん、もうそんな時間ですか? ありがとうございます」
前林はお礼の言葉を呟くと、ゆっくりと立ち上がって体を大きく伸ばした。続いて徳佐も立ち上がって同じ動作をする。そして2人はその女性職員に案内され、大使館内の食堂へと向かう。
その途中、前林は前を進むカタルーニャ人の女性に向かって、何気なしに声をかけた。
「申し訳ない、個人的な質問なのですが・・・」
「はい、何でしょう?」
女性は振り返って首を傾げる。彼女のカタルーニャ語は前林と徳佐が身につけている翻訳機によって瞬時に日本語に変換され、指向性音声によってそれぞれの耳に届く。
「こちらの仕事はどうですか? 待遇に満足していますか?」
「!」
前林は外務省から派遣された監査官として、実際の職員の言葉から組織運営や労働環境に探りを入れようと試みたのだ。
その女性は一瞬だけハッとした表情を浮かべるが、すぐに笑みを取り繕う。
「はい、給料にも環境にもとても満足しています。大使館の方々にもとても優しくしていただいています。ここにいるカタルーニャ人は皆、真柴大使にとても感謝しているのです」
「・・・なるほど、よく分かりました」
前林には彼女の心の全てが見えていた。それを目の当たりにした彼の表情は、決して穏やかなものではなかった。
その後、前林と徳佐は食堂へたどり着く。食堂は大きなテーブルの上にカタルーニャの料理やパンが並べられ、職員が各自で料理を取り分けるシッティング・ビュッフェ形式になっていた。
尚、卓上に並ぶ料理は「自動調理器」によって合成されたものではなく、カタルーニャ人の料理人が実際に調理したものであった。パエリアのコメの代わりにパスタを用いる「フィデウアー」、白身魚をトマトベースで煮込んだブイヤベース、チーズを使用しないカタルーニャ風ピザの「コカ」など、カタルーニャの料理が並んでいる。
「これがカタルーニャの料理なんですね」
「日本国内じゃあ、海外の料理なんて自動調理器で作ったハリボテしか食べられないからな」
前林と徳佐は適当に料理を取り分け、向かい合うようにして小さなテーブル席へついた。2人は初めて口にする本格的な海外の料理に舌鼓を打つ。
ちなみに自動調理器が普及し、家庭から「料理」が消えた日本でも、格式ある場では手作りの料理を出すことが慣例となっているため、「料理人」という職種が消えたわけではない。
「・・・ふう」
おおよそ腹が膨れたところで、前林は小さなため息をついた。前を見れば、同じく食事を終えた徳佐がテーブルナプキンで口元を拭いている。その動作が終わる頃を見計らって、前林は彼に小声で話しかけた。
(徳佐さん・・・夜、お話があります)
(・・・? それはここでは言えない様な話か?)
(はい。絶対に2人きりで・・・)
前林の神妙な表情を見て、徳佐はただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
同日 夜
その日の夜、仕事を終えた2人は大使館の外側であるバルセロナの街にいた。そこは日本皇国大使館から程近い、富裕層が暮らす治安がある程度安定した地区の飲食店であった。
彼らは大使館の内部では職員による盗聴の類が働いている可能性を考え、わざわざ危険な街中に出てきていたのである。
「ここなら流石に大丈夫だろう・・・。では聞かせてくれないか? 君があの場で何を聞いたのか・・・」
徳佐はワイングラスを片手に持ちながら、前林が読み取った情報について尋ねる。前林は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「・・・率直に申し上げます。あの大使館は・・・『売春斡旋』、または『性接待の強要』を行っている可能性があります」
「・・・何ッ!?」
予想外の発言が飛び出し、徳佐は口に含んでいるワインをむせ返してしまう。
「・・・『この男たちの相手を誰がするのか』、我々を見ていた現地女性の職員たちは、そんなことを心の中で呟いていました。案内役の女性の心の内も、口に出すのが憚られるほどに壮絶なものだった」
前林は冷静な口調で、大使館の中で耳にした「心の声」について語る。しかし彼の心には静かな怒りの炎が灯っていた。
「・・・その推論に至った彼女たちの『心の声』というのは、確かなんだな?」
「はい」
徳佐の問いかけに、前林はまっすぐな眼で答える。