永遠の人魚-マーメイド-
2101年4月21日 静岡県駿河湾沖 東京宇宙港 日没頃
駿河湾の沖合に、メガフロートが建造されている。その広さは縦横4kmに及び、浮島の上にはガラス張りの巨大建築物が建てられていた。浮島の沿岸には、船が到着する為の港湾施設が整備されているが、それらは海の上を行く船を泊める為のものではなく、星の海を航海して来た宇宙航行船が泊まる為の「宇宙港」であった。
『間もなく着水する。衝撃に備えよ!』
また1隻、星の海を旅して来た船が、遙か上空から太平洋へと降り立っていく。港に並ぶ船はいづれも、「再使用型宇宙往還機」と呼ばれる、機体1つで宇宙と地球を繰り返し往復出来る機体だ。
RLVの研究は1960年代以降に世界各国で行われ、かつてはアメリカ合衆国が開発したスペースシャトルが、それに1番近かったと言われる。しかし、その開発が成される前に、東亜戦争に起因する世界経済の崩壊が起こり、世界の秩序は崩壊した。
その後、2040年に地球へ帰還した「日本国」は、28世紀の宇宙戦艦「扶桑」とその艦載機に使用されていた技術を流用し、2071年にRLVの独自開発に成功、更には2076年に大気圏と宇宙を往復できる戦闘機「UF−3・ユニバースゼロ」の開発に成功する。
続けて日本は「扶桑」とその艦載艇、独自開発したRLVを利用し、地球近傍小惑星や月面の進出事業に着手、その活動範囲を宇宙へと広げたのだ。
宇宙開発の目的は、何時の日に来るやも知れない「国際連邦」との決裂の日に備えたものである。月面や小惑星は有事が発生した場合における、日本の生存圏と位置づけられているのだ。
『RLVコード00012・貨客船『昴』、着水する』
『垂直噴射開始、重力子阻害率95から75へ。100、50、20、10・・・!』
凄まじい水しぶきを上げながら、宇宙船が海面に着水する。宇宙貨客船「昴」は海面に浮かぶ誘導灯の導きに従い、第9バースへと向かって行く。そして着水から数十分後、「東京港」への着岸に成功した「昴」は港へタラップを下ろし、積荷と乗客を地球へと降ろした。
宇宙航行船に乗る乗客は、地球外の政府機関や研究機関に属する日本人がほとんどであるが、中には民間人も居る。治安が崩壊した地球を嫌い、月面移民募集に参加した外国人たちだ。日本は日本本土への移住は厳しい制限を設けているが、「宇宙移民」は積極的に募集している。彼らには宇宙移民のモデルケースとなって貰う代わりに、日本国籍が付与されている。
そういった移民や研究者たちが集う月面都市は、現在3000人ほどの居住者が存在しているのである。
「わぁ〜! 宇宙航行船!」
星の海を旅する船を、無垢な眼差しが見つめている。しかし、その眼差しは宇宙港の展望室から向けられているものでは無い。暗い暗い海から顔を出した、1人の少女から向けられているものだった。
「いいなぁ〜! 私も何時か、宇宙を旅してみたいなぁ〜!」
海の波に揺られながら、少女は煌びやかな東京宇宙港を見つめていた。再使用型宇宙往還機が実用化されたとは言え、日本国内においても、宇宙旅行はそこまで一般化されているものではない。そして、この少女にはもう1つ、宇宙へ行く上での大きな制約があった。
「・・・あ! もう、やっぱり此処に居た! 駄目でしょ! 勝手に1人でこんなところまで来たら! サメにでも襲われたらどうするの!」
「!」
少女を叱責する声が聞こえる。少女が後ろへ振り返ると、そこには少女の母親が居た。
「ごめんなさい、すぐに帰るから!」
少女はそう言うと、残し惜しげな目で宇宙港を見つめる。そして母親と共に海の中へと潜っていく。その時、ちらっと海面の上に見えた少女の下半身は、月の光をきらきらと反射する華麗な鱗に覆われていた。
・・・
静岡県 伊豆半島 下田市 沿岸部
静岡県は伊豆半島、白浜海岸の沖合には「人魚の里」と呼ばれる海域がある。そこはスクリューなどがついた動力付き船舶の立ち入りが禁止されており、さらには大きな海洋生物が入り込めない様に網が張られていた。
その海域を見ると、耐水処理された特注の家屋が並ぶ。家々は下半分だけ、海面の中に沈むように建てられていた。その家々の間を、半人半魚の姿をした者たちが泳いでいる。その様は正に「人魚の里」であった。
この「白浜海岸」は日本政府により指定された、「人魚族」とその子孫が暮らす場所なのだ。日本に存在する人魚はテラルスからの移民者とその子孫からなり、合計で40人ほどである。
政府がこの様な里を建造するに至った理由は、人魚の生態にある。彼女らの肺は陸上でも水中でも酸素を取り込める。しかし、その下半身は魚である為、あまり長時間陸上に居ると水分が蒸発してしまう。人魚の身体は陸上で暮らせる様に出来ていないのだ。
海底に並ぶ住宅の中も半分だけ水で満たされており、並ぶ家具は全て耐水加工された特注品である。各家庭には海中ケーブルで送電されており、電灯も点いている。そんな住宅群の1つに、「白樺」という表札がかかった家があった。
「またハルちゃん、宇宙港に行ってたみたいよ」
「あの子も好きだよな〜、女の子なのに」
「まあ仕方無いわよ、小さい頃からの憧れだったんだもの。そもそもあの子の宇宙好きはアンタの影響でしょ」
その家のリビングには人魚の3姉弟が居た。内訳は上から長女・長男・次女の順である。そして彼女・彼らにはもう1人、末っ子に当たる三女が居る。3人が話しているのは、その三女に関することであった。
三女の名は白樺ハル、年齢は14歳の中学2年生だ。彼女らは母親が人魚で父親が人間の「人魚族」である。
因みに当然ながら、彼女たちの父親は海中では暮らせない。故にそういった水棲生活が出来ない同居家族の為、この「人魚の里」の家屋にはあらゆる工夫が施されている。
また人魚族の子息向けの学校施設も、この海域に建設されており、付近の小・中・高校から、教員が1日1人ずつ派遣されているのだ。
「・・・」
件の三女は、自室の棚から宇宙図鑑を引っ張り出して、それを夢中になって読み込んでいた。それは元々、長男が所有していたものである。
その図鑑には、そう遠く無い将来に来る「宇宙開拓時代」、その展望が描かれていた。実現した「月面基地」をはじめ、28世紀の技術を流用し、すでに着手されつつある「火星の超短期環境改造計画」、「金星の浮遊都市構想」、「タイタンの資源開発構想」、そのどれもがハルの心を躍らせる。
「・・・ハルもその本、良く飽きないね」
「うん! 私は何時か宇宙へ行くんだ!」
長男のゲンはどこか物憂げな表情をしている。しかしハルはそれに気付かず、図鑑のイラストを見つめながら、純粋な笑顔で言葉を返した。
その後、彼女たち家族は夕食を済ませると、テレビ通話で横浜に暮らす父親と話したり、バラエティ番組を見たり、学校の宿題をしたりしながら夜を過ごした。
時間は夜の11時をまわる。ベッドの上に横たわったハルは、尾ひれの根本にスカーフを結びつけた。その一端はベットの柱に続いており、波に揺られて部屋の中をあっちこっち浮遊してしまうのを防ぐ為のものである。
敷き布団を被ったところで、母親のミズキがハルの部屋の扉を開けた。
「おやすみなさい、ハル」
「・・・おやすみ、お母さん」
宇宙港への遠泳をした為か、ハルはベッドに横になった途端に強烈な眠気に襲われた。ミズキはあっという間に眠りに落ちた末娘を見届けると、そっと扉を閉じる。
・・・・・
・・・
・
ハルが眠りに落ちた後、母親のミズキと長男のゲンは2人でリビングに居た。2人は何処か浮かない顔をしている。その原因は他でもない、ハルに関することだった。
ゲンはオレンジジュースを飲み干すと、小さなため息をついた。
「ああやって、宇宙港へ足繁く通うあの子を見ていると、可愛そうになってくるんだ」
ハルは宇宙に憧れている。近い将来、必ず来ると言われている「宇宙開拓時代」を楽しみにしている。しかし、彼女が星の海を旅するのには、あまりにも大きな障害があった。
「僕たちは地上では長く暮らせない。人魚の身体では宇宙へ行くことなんて・・・」
ミズキは頭を抱えていた。現状として、人魚が陸上で暮らせる様な環境はこの国に整備されていない。人魚の子として生まれたハルの身体では、宇宙の旅は非常に難しかった。
「あの子は何時か、その現実にぶち当たるよ・・・。その時にあまり気落ちしなければ良いんだけどね」
ハルはいずれ、自分の身体では宇宙へ行けないことに気付くだろう。その時、夢を見失ってしまった彼女が、どれほどのショックを受けてしまうのか、ゲンは兄として、妹の将来を不安に感じていたのである。
「・・・!」
しかしこの時、2人は重大なミスを犯していた。扉の向こう側に居るハルに気付いていなかったのだ。
2人の会話を聞いていたハルは、顔を俯けたまま水面へ飛び込み、自分の部屋へと飛び込んだ。ミズキとゲンはその音を聞いて、ハルが自分達の会話を聞いてしまった事に気付く。
〜〜〜
静岡県 駿河湾 沖合 東京・宇宙港
JAXAが発展的解消を遂げて誕生した「宇宙開発省」直下の省庁大学校、「宇宙航空大学校」の学徒たちが実習に訪れていた。
宇宙港の運営公社「日本国有太陽系航宙(Japanese National Spaceline of Solar system)」の担当者が、学生たちに説明をしている。彼らは今、港の第3バースを訪れていた。
「この大型宇宙航行貨客船『北斗』は全長430m、主機は2096年製小型核融合エンジン『NFR-56』、日本が独自開発した14機目のRLVです」
学生たちは興味津々な様子で説明を聞いている。星和暁もそんな学生の1人であった。彼らは宇宙へ憧れ、その夢を現実へとたぐり寄せた秀才たちなのだ。
「では・・・これより昼休憩とします。午後1時半に再び此処へ集合してください。それまでは施設内を自由に見学して頂いて構いません」
時刻はおおよそ正午を回っていた。担当者は学生たちに一時の解散命令を下す。学生たちは説明をしてくれた男に一礼をすると、各々散って行った。
星和は昼食をとった後、仲間たちと共に宇宙港の船着き場を歩いていた。港湾には一隻一隻が400〜500mはある「宇宙航行船」が並んでいる。主に月面や地球近傍小惑星から採掘された資源を地球へ運び、地球からは支援物資を各拠点へ運んでいる。
宇宙の資源開発は未だ試験的な領域を完全に脱してはおらず、採算性については微妙なところであるが、日本政府は「生存圏確保」の一環として、宇宙開発に大きく力を入れていた。
「・・・?」
星和は波打ち際を歩いている途中、海面に何か小さなものが突きだしているのを見つける。そしてよく目を凝らして見ると、それが“人間”の頭であることに気付いた。
「危ない!」
星和は誰か溺れているのかと思い、制服を着たまま海へ飛び込んだ。彼は海の荒波を掻き分けながら、その人間の方へ泳ぎ、近づいて行く。
「グッ・・・! ゲホゲホッ!」
しかし、太平洋の荒波は星和の動きを容赦無く妨げる。その内、逆に彼の方が翻弄され、溺れてしまったのである。
「・・・え!?」
星和が助けようとしていた人物、すなわち人魚族のハルは事此処に至って、彼の存在に気付いていた。しかしその姿を見たのもつかの間、波にのまれた彼の身体は海の中へと消える。
「馬鹿!! 一体何やって・・・!?」
ハルは急いで星和を助けに向かう。その間にも彼の身体はどんどん水底へ沈んでいく。星和の目には水面でゆらゆら揺れる太陽の光が見えていた。
(・・・し、しまっ・・・!)
星和は右手を太陽に伸ばす。身体は思う様に動かず、意識も遠くなっていく。だがその時、キラキラと輝く影が、彼の視界を横切った。
(・・・大丈夫? とりあえず港まで連れていってあげるから)
水の音しか聞こえないはずの水中で、確かに人の声が聞こえてくる。その瞬間、星和は意識を手放した。
星和の身体を捕まえたハルは、彼の頭を海の上へ持っていくと、宇宙港へと向かって進む。そして空いている船着場を見つけ、海から星和の身体を引き揚げた。
「・・・」
ハルは自らも岸へ上がり、星和の様子を見つめていた。ハルは目覚めない彼の体を揺する。すると気がついたのか、飲み込んだ海水を一気に吐き出し、酷く咳き込んだ。
「ゲホッ・・・ゲホゲホッ!! ハァーッ、ハァーッ!」
意識を取り戻した星和は、深呼吸を繰り返して息を整える。その後、自分がやろうとしていたことを思い出したのか、おもむろに立ち上がって再び海へ飛び込もうと走り出した。
「ちょっと! 待ってよ!」
「・・・ぐえっ!?」
彼はそばにいるハルのことが目に入っていなかった。ハルは咄嗟に彼の足を掴み、海への飛び込みを阻止する。足を引っ張られた星和は、その拍子に顔面から地面に飛び込んだ。
「いった〜っ!! 何するんですか!? 俺は溺れている女の子を助けないといけないのに!」
星和は自分が助けられたことをわかっていない様だった。ハルは大きなため息をつくと、今の状況について説明する。
「助けたのは私で、助けられたのはアナタ! 海に居た私を『人間』と勘違いして海に飛び込んで、逆に溺れたアナタを私が助けたの!」
「人間と、勘違いして・・・?」
星和はハルの体に目を向ける。彼女の下半身は煌めく鱗に覆われ、足があるはずの場所には綺麗な尾ビレが付いていた。星和はようやく状況を理解する。
「あなたは・・・『人魚族』?」
「そうよ、『人魚の里』から来たの。アナタは・・・?」
「・・・あ、助けていただき、ありがとうございました。俺は宇宙航空大学校1年生、星和暁といいます」
「私は白樺ハル、中2でスズメダイの人魚なの」
星和とハル、2人は初めてお互いの素性を明かした。ハルは「宇宙航空大学校」の学生だと名乗った星和に興味を抱く。
「ねぇねぇ、宙航大生ってことは宇宙航行船に乗ったりするの?」
「ええ、学年が上がれば実際の船に搭乗し、月面都市に滞在する宿泊実習があります」
「ヘェ〜!、いいな、いいな!」
「宇宙航空大学校」とは、「宇宙開発省」直下の大学校であり、発展・発達を続ける宇宙開発産業に携わる次世代の人材を育成する機関だ。教育課程はいくつかの部門に分かれ、星和が所属しているのはRLVの新規開発・研究に携わる「宇宙輸送技術課程」であった。
「そもそもハルさん、宇宙航行船がどういう原理で飛んでいるのか、君は知っているのですか?」
「ううん、図鑑には書いてあった気がするけど・・・」
ハルは中学2年生、宇宙航行船の詳しい仕組みまでは、文字で読んでもよくわからなかった。星和は助けてもらったお礼として、宇宙航空大学校で学んだいくつかの知識を教えることにした。
「日本で造られる『宇宙航行船』の船底の”ある層”は、28世紀の技術を元に作られた特殊な材質で出来ています。これはある電圧の電気を通すと、重力を生み出す素粒子である『グラビトン』を吸着し、そのやり取りを阻害する性質を帯びるんです。即ち『重力』が働きにくくなる」
28世紀の超科学が生み出した飛行戦艦「扶桑」、日本はその技術を解析・研究し、国の発展のための力としてきた。その中の1つが「重力子制御技術」であり、これを利用した日本の宇宙航行船は、その巨大な船体にかかる重力を自在に軽減することができるのだ。
「そうすれば21世紀初めのロケットの様に膨大な燃料を燃やす必要も無い。中程度の噴流で、竹とんぼの様にふわっと宇宙へ飛び立つことが出来るんです」
「ふーん、わかった。なんとなく」
ハルはニコニコしながら星和の話を聞いている。気を良くした星和は、その後も宇宙開発の最新情報について噛み砕きながら説明を続けた。
今後10年で5万人を月面移民とする計画であること。おおよそ20年足らずで火星移民が始まること。木星への有人到達ミッションが扶桑を用いてまもなく開始されること。宇宙開発のリアルがハルの胸を踊らせた。
「ハルさんは、宇宙にとても興味があるんですね。いつか宇宙に行きたいと思いますか?」
「・・・!」
星和は何気なく尋ねる。しかし、その質問を聞いたとたん、笑顔だったハルの顔が一転して曇ってしまう。星和はその理由がわからず、首を傾げた。
「うん、小さい頃にお兄ちゃんが持っていた宇宙図鑑を見て、それでいつか宇宙を旅してみたいと思ったの。でも・・・」
「・・・でも?」
ハルはぎゅっと目を瞑る。そして泣きそうな声を震わせながら、ゆっくりと語り始めた。
「お母さんに言われちゃったんだ。陸上に長い時間居られない私たちの身体じゃ、宇宙航行船に乗るのは無理だって。だから・・・私、諦め・・・なくちゃ!」
「・・・!」
星和はハッとした表情を浮かべる。ハルの身体は海で生きる者として作られている。彼女の様な人魚族を含め、水棲亜人種族が宇宙へ飛び立てる環境は未だ存在しない。
「暁は良いね・・・『人間』だから。私も、人間に生まれたかったよ・・・!」
人魚と人間の混血の場合、人魚の血筋は人間に対して“優性遺伝”になることが分かっている。白樺家の場合、母親のミズキは人魚と人間のハーフ、そして父親は人間である為、単純な確率では、子供達が人魚に生まれるか、人間に生まれるかの可能性は半々だった。
しかし何の因果か、4姉弟は皆、人魚の身体で生まれて来た。そのことが、今の彼女にはとても哀しかった。
「・・・」
星和は言葉を発することができない。その直後、彼の腕時計がアラームを鳴り響かせた。昼休憩が終わり、集合時間が迫っていたのだ。
「・・・ハルさん、申し訳ないですが、俺はそろそろ行かないと」
「・・・あ、ごめん。引き留めちゃったね。じゃあ・・・」
ハルは目尻に浮かんだ涙を拭うと、気丈な笑みを浮かべて体を海へ向けた。星和は悲しみをたたえた彼女の背中を見て、思わず声を張り上げる。
「・・・大丈夫です! 俺が開発してみせます! 人魚族も宇宙を旅することが出来る様に、貴方たちが陸上で生活できる様な機械を!」
「!」
ハルは星和の方へ振り返った。星和は言葉を続ける。
「だから、貴方は貴方が人魚であることを、悲観しないでください。きっとお母さんも悲しみますよ?」
自分の生まれを悔いることは幸せなど生まない。それならば前提を変えればいい。星和はいつか彼自身がハルを宇宙へ行けるようにすると告げた。そしてその言葉は、落ち込んでいた彼女の心を強く励ます。
「ありがとう、暁・・・待ってる!」
ハルはそう言うと海へ飛び込んだ。直後、彼女は海中から顔を出し、岸に立つ星和に向かって問いかける。
「明日も・・・また来てもいい?」
「ええ、もちろん! あと2日はいますから」
「やったーっ! また宇宙の話、聞かせてね!」
ハルは嬉しそうに笑うと、星和に向かって大きく手を振り、海の中へ潜って行った。星和は1人、人魚が消えた海を見つめていた。
〜〜〜
太平洋 日本列島沿岸から25海里水域
その日の夜、暗い海の中を進む影がある。それは海の中をスクリューで進む、小さな潜水艇だった。その中には屈強な男たちが乗っている。画一の制服を身に纏っており、明らかに民間人ではない。
男たちは緊張の面持ちで日本を目指す。彼らは中国大陸において日本と対立する“軍閥”の工作員であった。
「まもなく、日本の接続水域に突入します!」
操舵員が報告を行う。総勢十数名の乗組員たちは、一斉に険しい顔つきとなった。
海の上を行く不審船に対しても、海中をいく潜水艦に対しても、日本の海にはあらゆる哨戒網が敷かれている。水中に固定された聴音器と無人哨戒ドローン、有人哨戒機、無人沿岸フリゲート、そして監視衛星が連携し、日本列島へ迫る侵入者に目を光らせていた。
しかし、22世紀となった今も、全ての侵入を100%防ぎきれるわけではない。日本国内には大使館員に紛れた諜報員のほか、こうして交流の無い地域から命がけで派遣される工作員も少数ながら存在していた。
日本列島の付近までたどり着いた後は、沿岸部にボートで来る先任の工作員と交代し、日本国内へ侵入する予定になっていた。しかし、言葉では簡単でも、厳しい監視の目が張り巡らされた日本の領海・接続水域を抜けて、日本列島にたどり着くのは至難の技なのだ。
そして彼らの目的は「日本に棲息する『亜人種』と呼ばれる生物の実態」について探ることである。亜人に対して警戒し、探りを入れているのは彼らの軍閥だけではない。日本が異世界テラルスより持ち帰った未知の存在、人間を超える身体能力と、魔力による特殊能力を持つ彼らは、他国にとって「扶桑」に負けずとも劣らない脅威であったのだ。
「・・・」
潜水艇はついに24海里、すなわち接続水域へ侵入する。乗組員たちは息を潜め、船がこのまま日本列島へ無事に到達するのを祈る。
そして潜水艇は陸地から12海里地点、領海と接続水域の境界線までたどり着く。場所は神津島の西南西、伊豆半島の南の海域であった。
「・・・おい、あれは何だ?」
その時、突如としてリーダー格の男が1つのディスプレイを指さした。乗組員たちは彼が指さした方を見るが、そこにはサーモグラフィに魚が映し出されているだけだ。
「いや・・・確かに人の形の様なものが見えた。赤外線カメラを動かしてみろ」
「了解」
リーダーの指示を受けて、部下の男が赤外線カメラを操作する。するとカメラに接続されたディスプレイに、海の生物たちに混じって、本来ならばこんな海中に居るはずがないものが映っていた。
「・・・これは!」
男たちは言葉を失う。赤外線カメラは確かに“人の体”を捉えていたのである。しかし、人間の形をしているのは上半身だけ、その下半分は紛れもない“魚”そのものであった。
その影を捉えられたのはわずか数秒だけで、カメラの射程範囲から消えてしまう。
「・・・『亜人』だ!」
リーダーの男は思わず感嘆の声をあげる。日本軍や海上保安隊の監視の目が行き届きにくいこの海中にて、無防備に遊泳する亜人種・・・彼らにとってこれ以上の格好の獲物はなかった。