着彩
ふぅと、息をついたのは、安堵よりも疲労からだった。
脳内が不明瞭だ。呆然とする頭で数歩後ろに下がると、足に力が入らないこともわかった。どうやら思った以上にボロボロのようだ。のどが渇いて、声が出ない。
少し離れてみつめる、自分の作品。
ギルのために描いた、ギルの店のために描いた、私の作品。
これが今の私の精一杯の気持ちだ。
いつか、何も思わず自由に絵を描ける日が来るかもしれない、
まだその日は遠い。
だから、ギルが私を特別だと感じるように、私なりの『特別』で彼に返そう。
口元が緩む。
いつから書き出したのか記憶にない上に、今が何日かもわからない。
もしかしたら、数時間しかたっていないのかもしれないし、数日飲まず食わずで立ち続けたのかもしれない。体の疲労具合からすると後者な気がするが、いまだ、心は動き続けている。興奮状態のまま、コップ一杯の水を胃に流し込むと、書きあがったばかりの絵をケースに詰め込んで、家の鍵と財布を握りしめて飛び出していた。ちなみに、家の鍵は閉め忘れた。
「あら、こんにちわ。珍しいですね」
店員さんが、驚いた顔をして私を見る。
「え?いや、どうも」
急に話しかけられたので、うろたえていると、店員さんは上品な笑みを浮かべてくれた。
「いつも金曜日の朝にいらしてくださるので、珍しく思っただけです。でも、もうピークが過ぎて、人気のある商品は売れてしまって」
確かに、いつもお客さんのいない時間帯に来ているから、目立って覚えられてしまっただけだろう。場違いの女が通っていると思ってないようでよかった。
「あの、すみません」
一生懸命、チョコレートを勧めてくれる女性に申し訳ないが、持っているケースを彼女に差し出す。
「これを、ギル、バート…さんに、わたしてくれませんか」
「ギルバートさんって、オーナーの?」
彼女の顔に疑問が浮かぶ。それもそのはずだ、この店にギルの名前が載っているものは何もない。こくりとうなずけば、彼女は少し考えるように下を向いた。
「い、いらなかったら、焼いてもらっていいんで!!」
よくよく考えたら、不審人物でしかない。ケースを押し付けて、逃げるように店を出た。
「待って、ギルバートさんなら、5分後には来るから直接渡して!!…あら、いっちゃった」
緊張した。とてもスマートとは言い難いが、結果としては成功と言えるだろう。
気が抜けたせいで、全身が重い。栄養不足の体が、エネルギーを欲しているのがわかるが、それよりも横になりたい。
駅について、バスの時刻表を確認する。あと数分でバスが来る。時間が余れば、どこかで栄養補給でも考えていたが、その時間はなさそうだ。うん、帰って寝るに限る。
バス停の椅子はすべて埋まっていたので、壁に寄りかかって待ってみる。
数か月前まで、この町で暮らしていたはずなのに、行きかう人の多さにどうにも慣れない。鳥の鳴き声も聞こえない、風の音も聞こえない、それなのに、人の話し声とバタバタとした足音だけはやけに耳に響く。
「君という人は、本当に、…本当に」
聞いたことのある声に振り返ると、ぜえぜえと息を乱した男がいた。
「…ごめん、」
自分でもなぜ謝罪の言葉が出るのかわからなかったが、ギルは困ったように目をそらす。少し伸びた髪、いつも短く切りそろえられていたから、きっと伸ばし始めたのだろう。以前と違う雰囲気にちょっとだけ胸が高鳴る。
「絵、見てくれたの?」
「見てない、」
そんな時間はなかったと答える彼はぶすっとしているが、そこまで機嫌が悪いわけじゃないようだ。少し残念だが、そこは私の口が出せるところではない。
芸術が好きで、私の絵を高く評価するギルらしくない、そう思っていると、彼は笑っていた。本当に彼らしくない。
「君が、俺の店に来てくれていたことがうれしい」