浅倉先生
「ん、そこよ」
「ああ、ここか」
グチュ、グチュ、と粘膜が音を立てる。
俺が弄るたびに浅倉は「んっ、んっ」と厭らしく声を鳴らす。
「ほら、もっと動かして」
「……動かしてんだろ」
「もっとぉ……もっとはやくぅ……」
「いや、おかしいだろ!」
犬歯の一つ奥の歯。それをグラグラと動かすたびにグチュっと歯肉が音を立てる。
「あら、こういうのは好みじゃなかったかしら」
「……ただ歯を抜いてるだけだからな?」
「ただの歯じゃないわよ。発症部位なんだから」
シナプス超伝達症。精神が脳の制御を外して無理矢理動かしている状態。症状が進むと、身体の変形が起こる。
変形部位を摘出、もしくは治療しなければ病状が進み、いずれまともな姿には戻れなくなるらしい。
「俺の発症部位は歯だったってことか」
「よかったわね。自分で簡単に取り除けて」
「まあ、な」
高梨の発症部位はおそらく両足。竹内は……細胞全て。
もちろん自力で取り除くことなんて不可能だ
高梨と竹内は自分たちを治すためにアサクラ記念病院のデータが欲しかったのか。でもそれなら普通に調査局員になればいいだけの話じゃ……。
ごりっ。
歯が大きくズレた。
もう抜ける。
「あら、やっと松下くんもチェリーを卒業するのね」
「発症部位を摘出することと童貞を捨てることは関係ない」
俺は指に力を入れ、思いっきり引き抜いた。
ずりゅん、と何か太いパイプでも引き抜いたような感触。
「……おい、なんだこれ」
「まあ」
親指と人差し指が摘んでいるものは歯とは思えないほど歪な骨だった。
まるで小さな鹿の角。
上顎から骨がなくなったんじゃないかと思ったが、舌で確認したところまだ上顎は健在だった。
「こんなにも立派にそり立って——」
「変な言い方をするな!」
「でもこんなに成長してるってことは、あなたが自分の禁忌を刺激したってことよ」
「禁忌?」
「そう、これは身体の病気であると同時に心の病気でもあるの。禁忌というのはつまり、自分が苦手とする感情……みたいなものかしら。高梨くんなら劣等感、竹内くんは感情自体が禁忌だったって言ったらわかりやすいかしら」
確かに高梨は自尊心に満ち溢れ、竹内は常にクールといったら聞こえはいいが感情を表に出さないやつだった。
これは本人の性格もあるのだろうが、病気が進行しないようにあえてそうしていたということか。
「じゃあ、俺の禁忌は……」
「たぶん罪悪感、ね」
「…………」
常に自分は罪悪感を感じずに、正義でいたい。
なんて自己中心的な禁忌なんだ。
「それよりも、あなたがただの高校生から暗殺者に変わっているのは何故? 寝ている間なにがあったのかしら?」
「特になにも」
底守の顔がちらつく。
思い出したくもない。想像しただけで嫌気がさす。
「それで通るとでも?」
「何度も殺される夢を見ただけだ」
「…………そう。まあ、いいわ。それと配属先だけど」
「配属? なんだよそれ」
「あなたの居場所よ。アサクラ記念病院調査局機動科に決まったから」
長ったらしい名前だ。
どうせ病院側は俺を監視下に置きたいだけなんだから配属なんて決めなくてもいいのに。
「通称、靴屋。私が主任を務める私の直轄部隊」
「え゛っ!?」
「なに? 不満そうね」
「……いや、別に」
なんか本当にバケモノ小屋に入ってしまったんだなと自覚させられる。
寮から逃走したあの夜、森での浅倉の姿が脳裏を過った。
目の前の視界が恐怖で揺らぎ、身体は俺のものじゃないとばかりに動かない。
心はこれでもかと小さくすぼまって、命が握りつぶされる感覚に陥るんだ。
俺もあんな風に人に見られるのかな。
今、目の前に座る浅倉を見てもあの時の恐怖はわいてこない。
それは俺がバケモノになってしまった証拠のような気がして、胸に少しの喪失感が芽生える。
俺の沈んだ表情を察してか、浅倉はあえて明るく振る舞うように手を叩いた。
「そうだったわ。ちょうどあなたにぴったりの仕事があるの。あなたも喜ぶと思うわ」
「斉藤先生! そんなんじゃ生徒に舐められますよ!」
「はぁ……」
朝、学校の廊下で耳に障るダミ声が聞こえる。
体育教師の砂川だ。
斉藤先生を廊下の隅に追い込み、なにやら怒鳴っている。
何も生徒の前で注意することないのに。そんなことしたらなおさら舐められるだろ。
「先生おはよー」
「ああ、おはよう」
女子生徒が砂川に軽い挨拶を交わす。
もし俺が同じように声をかけた日には「なんでお前タメ口なんだ!」と激怒することだろう。
ジャージ姿に運動靴。外見も中身も典型的体育教師。
砂川はある不良生徒を見つけ、声をかけた。
「深迫、おはよう」
「……うっす」
俺の前を歩く不良が気だるそうに答えた。
女子と不良には優しく、俺みたいな地味な生徒は視界にも入らないのか無視を決め込む。
「おい、松下! お前は挨拶もろくにできないのか!」
と、思いきや今日は虫の居所が悪かったのか、それとも高梨と竹内という二皇帝が側についていないからなのか、砂川に因縁を吹っかけられてしまった。
というか、深迫も自分からは挨拶してなかったぞ。
女子と不良、そして人気者さえ味方にしとけば自分の地位を確立できる……体育会系教師の考え方はなんとも合理的だ。
「……おはようございます」
「チッ……たく、久々に学校に来たと思ったら……」
俺に意識を向けている砂川の後ろで、そろ〜っとこの場を離れようとする斉藤先生。
いや、そんなあからさまに……絶対バレるだろ。
「斉藤先生! まだ話は終わってませんよ!」
「……え、いやそろそろ戻らないと」
「ですからね、そういうところが……」
案の定、逃げるのに失敗した斉藤先生はなおも砂川先生の説教を聞くはめになった。
なんとも可哀想でならない。
浅倉が言っていた仕事というのはこの学校に通うことだった。
また普通に学校に通えるんだと喜んだのもつかの間、なにやらかなり高レベルなシナプス超伝達症患者が学校関係者の中にいる可能性が高いらしい。
いつの間にここはそんな危険な場所になってんだよ。
それでその高レベルの患者を見つけるのが俺の役目だとさ。
頼むから普通に通わせてくれ。
しかもその患者、数十年前から病院が追っている患者らしく、世間では通称“死神”と呼ばれて都市伝説になっているみたいだ。
「死神か……なんかどっかで聞いたことあるような」
「死神がどうしたって?」
席に座ったところで、見慣れたお調子者が声をかけてきた。
金髪ショートカットの新聞部部長、綾取由奈。
と言っても新聞部はこいつ一人だから正式な部とは認められていない。
自分で勝手にそう名乗って、自作の新聞を定期的にばら撒く校内スピーカー野郎だ。
「……そういえばお前、死神がどうだとか言ってなかったっけ?」
「死神? ああ、涼海静の……そのネタは古いよ、松下くん。それよりも校内は君たちの話題でもちきりだよ。高梨くんがアイドルを引退したと思ったらそのまま転校してしまうし、一緒に竹内くんまで。君たち三人組は否応にも目立つ存在だったからね」
「目立ってたのは高梨と竹内だろ」
「むふふふ……たしかにね。でも君はなぜか二人と仲がいい。空気を読むこと“だけ”はやけに長けている“だけ”の君が、スクールカースト不動のトップ二大皇帝の親友だったんだ。これは誇ってもいいことだよ」
「なんだ、喧嘩売ってんのか? 買うぞ?」
横目で綾取を見ると、大げさに両手を上げて首を横に振った。
なんだその欧米みたいなリアクション。海外ドラマの見過ぎだ。
「勘違いしないで。褒めてるんだ。それでみんな君が何か知っているんじゃないかと噂になってるんだよ」
「……そうか、転校したのか」
綾取の目が細まる。いかにも観察しているという表情を隠しもしない。
やっぱりこいつは海外ドラマの見過ぎだ。
「松下くぅん。なにか知ってるんでしょぉ? 教えてよぉ」
「気持ち悪い声を出すな」
「やだよぉ。教えてくれるまでやめないからねぇ」
本当にこいつは生きてるのが恥ずかしくないのかな。
しかし、自分のプライドや他人の目よりジャーナリズムを優先するその心意気は認めざるをない。
「みなさん、御機嫌よう」
教室の扉が開くと同時に担任の声が場を支配する。
まばらに聞こえていた喧騒も途切れて、それぞれが自分の席に着いた。
「綾取さん、早く席について頂けますか?」
「ちっ、邪魔が入ったか」
一人席に戻るのが遅れた綾取が担任から注意を受け、渋々俺の隣の席に座った。
そういやこいつ、俺の真横の席だったな。こんなやつに付きまとわれてたら俺の精神が持たない。
しかし、綾取を諦めさせるのは、なかなか難しそうだな……。
横目で綾取が席に座ったのを確認し、教壇に立つ担任に視線を戻す。
担任である、浅倉先生は一見すると中学生のようにも見えるが、れっきとした……。
「ってお前、何やってんだよ!」
浅倉緋奈は俺の言葉を無視して教壇に出席簿を置き、垂れた髪を耳にかける。
なぜこいつがこの学校にいるんだ。
「……あら、松下くん。あなたは休んでいて知らないかもしれないけど、このクラスの担任になった浅倉緋奈よ。よろしくね」
「よろしくね……じゃねぇー!」
「浅倉先生。今日こそデートしよ?」
「あ、ずるい!私が最初に誘ったのに」
「順番は関係ありませーん」
朝のホームルームが終わり、教壇が女子まみれになる。
浅倉は意外にも女子たちに人気があるようで、デートなどとからかわれている。
まあ、見た目は中学生……いや、小学生でも通用するからな。それが担任なんだからからかいたくもなるか。
「あなたたちが、もう少し大人になったら付き合ってあげてもいいわよ」
「……なに、今、胸が」
「うん、なんかキュンってした」
「恋、したかも」
なんであいつは女子たちをときめかせてるんだ。
「浅倉緋奈、謎の新任教師。 ……スキャンダル……スクープ……」
「そしてお前はなぜ俺の机で張り込む」
綾取がその光景を双眼鏡で凝視している。しかも、俺の机に座りながら。
なぜこの位置でスクープを狙うんだ。
というか、そんな目立っていたらスクープ撮れないぞ。
「なあ、綾取」
「うん?」
「浅倉っていつからこのクラスの担任になったんだ?」
俺の質問に綾取は双眼鏡を外し、目を細めて訝しむ。
「……その答えを言ったら高梨くんと竹内くんのこと、教えてくれるの? 松下くん」
こいつ、めんどくさいな。少し意地悪してやるか。
「いや? お前を試したんだよ」
綾取は更に眉間にしわを寄せて俺を見る。
なんでそんなことをわざわざ試すんだ、といった表情。
まあ、適当にごまかすとするか。
「綾取、お前は情報の引き出し方を知らない。いいか? 俺も教えるからお前も教えろ、これじゃあダメだ。十中八九断られる。聞かれたらなんでも教えるんだよ。幼児に教えるように、丁寧に細かいところまで行き過ぎなほど親切に教える」
「……それで、私になんの得が?」
「まずは相手の扉を開くところからだ。一度開けば二度も三度でも情報を引き出しやすくなる。情報を貰うのは、相手にこれだけしてくれた相手なんだと印象づけてからなんだよ。そんなこともわからないとは、ジャーナリズムが聞いて呆れる」
適当にそれっぽいことを並べて、大げさに手を広げた。いつも綾取がする欧米リアクションだ。どうだ参ったか。
しかし綾取は予想に反して、ロダンの考える人のポーズで、人の机を台座がわりに銅像と化した。
なんで綾取の考える人を後ろから見なきゃならないんだ。
教壇を見やると浅倉と目が合った。
何もかも見透かしたような視線だ。俺の考えていることも、混乱も全て理解してる。
ものすごく長い数秒ののち、浅倉は目線を周りの女子生徒に戻した。
俺の知るこのクラスの担任は斉藤先生だ。
四十半ばほどの男性教員で、何をされても愛想笑いを浮かべるだけで、全く怒らないので生徒に舐められている。
その斉藤先生はどうなったのだろう。
「なあ、綾取」
不意に声をかけてしまったせいで、考える人になっていた綾取はビクッと体を痙攣させて、上半身だけこちらに向ける。
「なに?! なんでも聞いて!」
「……なんだ急に、気持ち悪い」
「いや松下くんが言ったんでしょ!? 情報を引き出すならまず相手の質問に何でも答えろって」
「あー……そうだったな」
「そうだったなってなんだよ!」
ああ、うるさい。何がうるさいって身振り手振りがいちいち外国のホームドラマみたいで視覚効果がうるさい。
いちいち手を広げるな。鬱陶しい。
「……斉藤先生は何組の担任だ?」
「斉藤先生? ああ、今のところ斉藤先生はクラスは持ってないよ」
完全に浅倉に押し出された形で斉藤先生の仕事がなくなっていた。
というかクラス持ってないっておかしいだろ。美術とか音楽の先生じゃあるまいし。
「浅倉の担当教科は?」
「え? すう——」
「数学よ。直接聞けばいいのに、松下くん」
浅倉が俺の真横に立っていた。
いつのまに女子の群れを抜け出してきたんでしょうか。
「それじゃあ、みなさん。一限目の準備よろしくね……松下くんは放課後残りなさい」
なんの補習でしょうか。嫌な予感しかしないんですけど。




