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現実

 薄っすらと目を開けた。

 二本並んだ蛍光灯が眩しい。


 やっと、目覚めだ。

 底守が現実では俺は一週間寝たきりの状態だと教えてくれた。

 そこまでが引き伸ばしの限界だとも言われた。

 それ以上寝たきりだと現実の体に負担がかかり過ぎるとのことだ。


 もちろん、夢の中の体感では数ヶ月、いや数年かもしれない。それほどあの地獄は長く感じた。


 仰向けのまま首を動かすと、どうやら病院だということがわかった。

 側に立っている画面の心電図に合わせて、ピッ、ピッ、と音が聞こえる。


 もはや何が現実で何が夢なのか。

 これも夢なのか。全く判断がつかない。

 五感を持つ夢というのは脳に混乱をきたす。


 だが、底守の方が夢というのは確信できた。

 どちらの世界も現実離れしている。

 もしかしたらどちらも夢なのかもしれない。


 でも、こちらが現実だと思う他ないんだ。

 圧倒的にこっちの方が心が痛いんだから。


 ……とにかく、起きるか。

 起きて、現状を把握しよう。


 体を起こそうとして胸に違和感を感じる。


「ッ……」


 入院着の中に包帯が巻かれていた。

 なんだこれ、なんで包帯なんて巻かれてるんだ。


 ……そういえば高梨に抱えられて空を跳んでいるときに、浅倉に制止させられて落下したんだっけ。

 その時に胸から落ちた気がする。


 胸をさすりながら、視線を落とす。

 ああ、やっぱりこっちが現実だわ。

 どうやら、包帯で固められている左手に親指がなさそうだ。


「目が覚めたかしら?」


 出入り口に見覚えのある少女が立っている。

 浅倉緋奈。

 その顔を視界に入れた瞬間、ぶわっと心が焼け焦げていく感覚に陥る。

 それでいて、脳はやけに冷静だった。


 こいつを倒して、高梨と竹内を取り戻す。

 考えている間に体が動いていた。

 体についてるチューブがぶちぶちと剥がれる。


 俺の拳が浅倉の顔面を捉えた。


「ダメよ、安静にして……」


 その瞬間、浅倉が消えた。

 まただ。

 この間もこいつは消えた。そういうことだ。


 この間まで俺がいた世界では信じられないが、適応するしかない。

 浅倉は消えることができる。

 そしてあの時、確実に鼻を殴った感触があったにもかかわらず消えた後は傷一つなかった。

 まるでゲームのリセットボタンみたいだ。

 つまりこいつが消える前に、殺すしかないということだ。


「やっぱり、体に異常はないみたいね……いえ、異常は異常なのだけれど」


 声の方を振り返ると、浅倉は俺の寝ていたベッドに腰掛けていた。

 相変わらずの不敵な笑みだ。


「なんだよお前、超能力者とか?」


 浅倉の笑みに答えるように表情を緩ませながらゆっくりと距離を詰める。

 なるべく自然に。

 俺の表情に視線がいくように、微笑む。


 俺の笑顔を見て、浅倉はスッと無表情になる。

 なにかを感じ取ったようだ。

 やはり、付け焼き刃の心理戦は分が悪いか。


 さっき殴りかかる動作に隠れて、銀色のトレイに無造作に置かれた注射器を密かに左手に忍ばせた。


 いったいこれがなんの薬なのかはわからない。

 しかし、予想はできる。俺がこうやって暴れた時のための鎮静剤。

 というかそれであってくれという願望に近い考え。


 浅倉は何かを警戒しつつも、ベッドから動く気はなさそうだ。

 そうだろうな。

 こんな格下を相手に距離を置くなんてプライドが許さないよな。


 ゆっくりした歩みの中、そのまま流れるように注射器で首元を狙う。

 その動きは決して速くはない。

 ただ握手を求めるかのように自然に、それだけだ。


 しかし、浅倉は注射器を握る俺の手を引き寄せ足を引っ掛ける。

 そのまま流れるようにベッドに押し倒された。


「あなた、誰?」


 四つん這いの状態で俺に覆いかぶさる浅倉。

 垂れた髪を耳にかけながら、艶めく唇を微かに震わせる。


「今のなんて暗殺者のそれなんだけれど」


 暗殺者か。

 俺は高梨みたいに速く動くことなんてできないからこの方法しかなかっただけだ。


 結局、底守との訓練は俺の道徳を崩壊させた。

 そして、新しい基準を作り出した。

 俺は俺を守るためだけに生きて、それ以外はどうなったっていい。

 法律も社会も道徳も。

 他人(お前ら)が決めたことに従ってても俺のためにならないから。


 あの日から毎日、底守に殺された。

 撲殺され、刺殺され、銃殺された。


 痛みは脳に麻痺を送る。

 痛み自体ではなく、痛みを伴うという予想ですら、体は縮こまり行動できなくなる。


 それは殺し合いにおいて圧倒的に不利だった。

 眼球を抉られようが、片目さえ見えていれば次の行動ができる。

 しかし、反射的に両目を瞑ってしまったら命を取られることになる。

 だから痛みに慣れるまで殴られ、刺され、撃たれるしかなかった。


 いつからだろうか、そうしているうちに人体にナイフを刺すということが、赤い水が入ったビニール袋を破るくらいにしか思わなくなった。


 どこを裂けばより多くの血が出るか、そしてどこにさせば骨をすり抜けて急所にナイフがたどり着くか。

 それだけを考えるようになった。


 俺は、もう俺ではなくなってしまったのかもしれない。

 それでも、俺にとって俺の人生は特別なものだったんだ。

 こうなってまで、取り戻したいと思うんだから。


「やっぱ、勝てないか。じゃあ話し合いで解決しよう」


 俺の言葉に浅倉はピクリと眉を動かす。


「本当に、別の人と話している気分」

「手っ取り早いだろう。錯乱して叫んで暴れまわるよりさ」


 浅倉は腑に落ちない表情だが、それでもしぶしぶ納得したというように小さくため息をついた。


 なんとか最悪の事態は逃れたか。

 というか、そもそもそこまで事態は深刻でもないのかもしれない。少なくとも問答無用で殺されることはなさそうだ。

 今のところ、だが。


 しかし、それよりもこの光景を客観的に見たとき……ベッドでいたいけな少女に押さえつけられながら、余裕ぶった言い回しをする男。

 ……我ながら情けない。


「高梨と竹内はどこだ?」

「いきなり本題ね。死んだとは思わないの?」

「もし死んだなら、これ以上お前と話す意味はない」

「……話さないとしたら、いったいあなたに何ができるのかしら」


 不意に少女が顔を近づける。

 鼻がぶつかりそうな距離だ。

 ベッドに押さえつけられている以上、こちらはどうしようもできないんだから勘弁してくれ。


 と思いつつ、舌を思いっきり出した。

 浅倉は反射的に顔を離す。


「あなた……!」


 こいつの驚いた顔はじめて見たわ。

 くすぐられる悪戯心をなんとか押さえ込んで答える。


「死ねる」


 思いっきり噛み切る。

 口から血が溢れた。


「何してるの?!」


 浅倉は慌てて口にシーツを詰め込もうとしてくる。

 俺はそれをさせない為に口を閉じた。

 血が喉を通り、徐々に凝固していく。

 このまま何もしなければ、気管が血で詰まって窒息死だ。


「わかった、わかったからッ!」


 浅倉は年相応の少女のような表情に変わっていた。

 それを見て俺は口から血を吐き出す。

 すぐさま浅倉は俺の口の中にシーツを詰め込んできた。

 もう大丈夫だっていうのに。


 正直、浅倉のこの反応はかなり意外だった。

 なぜ俺にこんな表情を向けるのか。まるで家族とか友人の心配をするみたいに。


 まあ、それは今考えることじゃないか。

 それよりも、俺の命が交渉材料になるとわかっただけで充分だ。


 賭けではあったが、わざわざ病院に連れてきて治療したんだ。

 何か価値があるのだろう。

 たまたま起きたタイミングで浅倉(こいつ)が来るなんて都合が良いにも程があるしな。


 ……まあ、やり方はかなり女々しい気がするが、他に交渉材料が見つからないからしょうがない。


「まったく、何を考えてるの? あなたが死んだら高梨くんと竹内くんはどうなると思ってるの?!」


 いきなり怒鳴られる。

 どうなるというのだろう。というか、キャラ変わってないか?


「まあ、私も少しばかり悪戯が過ぎたわ。あなたが余りにも余裕ぶってるから意地悪したくなったの。謝るわ」


 浅倉は早口でまくし立てる。

 先ほどまでのゆっくりとした口調は演技だったのだろうか。

 こうしてみると少し背伸びした少女にしか見えない。


「はぁあああ」


 盛大なため息。

 そして項垂れた。

 これ程までに肩を落としている人を見たのは初めてだ。

 なんて……なんて感情表現が豊かなんだろう。


 浅倉緋奈は口調だけは穏やかで、常に人を嘲笑するように薄笑いを浮かべている。

 そしてゆっくりとした動きから急に姿を消し、絶望とともに現れるんだ。

 そんなバケモノたる浅倉のイメージの崩壊が今まさに行われていた。


 落とした肩をなんとかとり戻し、浅倉は話し出す。


「ここは、わかっていると思うけどアサクラ記念病院。私の父が経営する病院」


 あ、一から説明してくれるのか。

 やけに親切になったもんだ。


「高梨くんと竹内くんはここにある研究データを盗もうとしていたみたい。何でかは知らないわ、本人たちが口を割らないから。でも、予想はできる」


 なんだ、と目で訴える。

 浅倉は目を瞑り、一呼吸おいて答えた。


「……あなたよ」


 …………ん? 俺?

 ……意味がわからない。


「意味がわからない、といった表情ね」


 貴様、底守か?

 いやそんなことはどうでもいい。

 どういうことなんだ。


「理由はわからないわ。ただ、あなたを生かすという条件で彼らは全面的に私たちに協力すると言っているの」


 血だらけのシーツを吐きだして、ベッドから立ち上がる。

 あいつらに会って話さないといけない。

 そんで俺に何を隠していたのかを聞く。いや、問答無用で吐かせてやる。


「ちょっとまだ……」

「大丈夫だ、ほら」


 舌を見せる。きっと口の中に血は残っているが、傷は消えているだろう。

 そして無かったはずの左手の親指も既に生えている。

 浅倉はそれを見て納得したように、差し伸べていた手を下ろした。


「……そう、能力が」

「ああ、なんかわかんないけど……俺もバケモノらしい」


 なぜか浅倉は全く動じなかった。

 俺にとっては一大事だったんだけど。


「あなたの検査……はまた今度にするとして、高梨君と竹内君に」


 浅倉が言い終わる前にスーツを着た男が慌てて入ってきた。


「局長ッ! 高梨悠介と竹内祐一が逃走しました!」

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