夢
脳がゆっくりと意識を取り戻していく。
見慣れた天井。俺の部屋だ。
ああ、全部夢だったのか。
なんであんな変な夢を……。
瞬きを何回かする。まだ夢の中かもしれないという疑念を振り払うように上半身を起こした。
「頭が重いな」
独り言をつぶやく。
それはある種の現実であるかの確認。
そして、自分の声がちゃんと自分のものであるかの確認だった。
まだ夢に引っ張られている証拠だ。
高梨と竹内がバケモノになる夢。
……なにかの暗示なのだろうか。
左手の親指を見た。
傷一つない親指を撫でて、少しだけ安堵する。
夢で機関銃の空薬莢を排出するところに親指を突っ込んだ。
思い出すだけで痛い。
まあ、興奮してたから痛みとかどうでもよかったような気がするんだけど。
でも骨が砕けた感触とか、血が飛び散るのがやけにリアルだった。
あんなに五感に訴えられたら痛みを感じなくても現実だと勘違いしてしまう。
俺は背筋を伸ばし、固まった筋肉をほぐす。
時計を見ると、朝の7時だった。
「……やけに静かだな」
7時であれば、さっちゃんの朝食を用意する音が聞こえてくるはずだ。
それなのに寮は全くの無音であり、人の気配すらしない。
俺はベッドから立ち上がり、洗面台に向かう。
途中に通るリビングには誰もいなかった。
ん? あれ、今日さっちゃんいないのか?
用事があるなんて聞いてないけど……。
疑問に思いながらも、リビングを後にして洗面台の鏡にぼーっとした顔を映しながら無造作に歯ブラシを動かす。
竹内はまだしも高梨はもうリビングに来てもいい頃なんだけどな。
あれ? そういえばあいつ、ホテルに泊まってるんだっけ?
ん、どこからが夢だ?
昨日、高梨がアイドルを引退して……いや、これも夢なのか?
ダメだ。混乱してきた。
夢と現実の境目がわからない。こんなこと今までなかったのに。
「……俺、もしかして精神病とかそういう系?」
「いや、今のところそういう兆候は見えないな」
男が俺の後ろに立っていた。
訝しげに顎に手を当て、こちらを鏡ごしに凝視していた。
見た目は二十代半ばくらいだろうか。
それなのに白髪が多く、黒と混ざりあって灰色に見える。
「あの、あなたは……」
「ん? なんだい、急に。僕は底守だよ。え、もしかして忘れてしまったのかい?」
そうか。そうだった、底守さんだ。
……なんで忘れてたんだろう。
「……なんでここにいるんですか?」
「何を言ってるのさ。ここが僕の家であり、君の家だろう?」
長めの前髪を大雑把に流しながら、底守は張り付けたような笑顔をこちらに向けていた。
その笑顔は決して自然ではないが、どこか安心感をもたらす。
まあ、俺はここに住んでいるから俺の家とも呼べる。
でも、底守さんってここに住んでたっけ?
というか、そもそも……。
「お前誰だよ!」
あまりに自然体すぎて流されてしまうところだった。
俺はこんな人は全く知らない。
「え、あれ? おかしいな。なんで効かないの?」
「何がだ! 不審者!」
底守と名乗る男が首を傾げるが、わけがわからないのはこちらの方である。
「とにかく不法侵入ですから出て行ってください!」
底守の背中を押し、玄関まで誘導する。
「あれ? 君、もしかして夢と現実の区別つくタイプ? いや、それならこの状況がおかしいな……あっ、わかったさては寝ぼけてるんだな? それで僕の能力が効かないんだ! それにしても夢で寝ぼけるなんて君はなんてお馬鹿さんなんだ!」
「何をごちゃごちゃと言ってんだ。精神病棟から抜け出しちゃダメですよ!」
「何気に失礼だな君は! 僕はどんなに精神を病んでもあんな所に隔離されるのはまっぴらごめんなんだよ!」
パチンと、底守が指を鳴らす。
寮が消えた。
いや、違う。別の場所だ。
まるでテレビのチャンネルのように景色が切り替わった。
「……どこだ、ここ」
真っ白の空間。
それ以外は何もない。ここを照らす光源すらどこにあるのかわからない。
全てが白いせいで、範囲が掴めなかった。どこまでも続く白い空間に思える。
「特別訓練所だよ」
目の前に立つ底守が、左手で前髪を撫でるように流す。
張り付いた笑顔が、ことさら不気味に感じる。
「君は、ここが現実だと思うかい?」
わからない。
現実か、はたまた夢なのか。
手のひらを眺める。なんの変哲も無い、ただの手のひらだ。
おかしいだろ。
夢ってこんなにはっきりと手のひらのシワを視認できるもんなのか?
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。
全て、現実と変わらない。
間違いなく、現実。
それなのに……なんだよこの空間は。
無限に続く白い空間。
こんな場所、現実にはありえない。
「現実とはなんだい?」
質問に答えられずに黙っていると、ことさら口角を上げた底守が続けざまに話す。
「五感で感じれるものを人はそう呼ぶ。だが、もし夢の中でそれを感じることができたとしたら、どちらが夢でどちらが現実なのか確かめるすべはあるのか……君はどう思う?」
なんの質問をしている?
いや、それは分かっている。底守が何を言いたいのか。
だか、こんなにもリアルな夢が存在するのだろうか。
それでも、もしこれが夢なら俺はどうやって現実を区別する?
俺の五感はここを現実だと訴えている。
…………ただ、もしここで何が起ころうが、きっと俺は何も感じないだろうな、という何となくの感覚。
高梨が倒れて、竹内が撃たれた時……俺の心はどうしようもないくらい揺れ動いていた。
心が理性と反発しあって、自分をコントロールできなくなるんだ。
ここにはそれがない。
どうしようもなくリアルだが、苦悩せず、感動せず、まるで安いドラマを見ているように客観的に物事を楽観視できる。
夢は、とても平穏で悩む必要のない空間だ。
もしここが悪夢に変わっても、現実の出来事とは比べ物にならない。
ここでは、ただ怖がるだけでいい。
「……より不自由な方が現実だ」
「ふぅん、なるほどね。君はなかなか見所がある。ある種、僕と同じ考え方だ。実につまらない」
そう言うと底守は、ぐにゃりとスライムのように融解した。
どろどろになったそれは、やがて少女の姿に形を変える。
「浅倉緋奈……ッ!」
その手には、マシンガンが握られている。
慣れた手つきでガチャンとハンドルを引き、薬莢を装填する。
少女の姿とあまりに相反する仕草。
そして、あと時とまったく同じ薄い笑みを浮かべながらマシンガンを構え、乱射した。
マシンガンが火花を散らす。
身体中に衝撃が走り、体は布切れのようにただなびく。
痛みと熱さで呼吸ができない。
それでも乱射は続き、俺の体は無造作に水玉模様を作りだした。
その水玉模様から吹き出る血によって視界は白から赤に埋め尽くされていく。
あまりにも長く感じる時間の中、思わず喉の奥から消え入るような声を発した。
「なんで俺、まだ生きてんだよ」
永遠にも感じた乱射が収まり、血みどろの中心で倒れている俺を底守が見下ろす。
「痛いか? 友達を奪われるのとどっちが痛い?」
答えるまでもない。
こんなもの、痛いのうちに入らない。
「肉体的な痛みは一時的なものだ。心の痛みは死んでも続く」
底守はマシンガンを投げ捨てるように俺に渡した。
「僕を撃て、体は動くはずだ」
驚くことに、穴だらけの体は痛みをとうに通り越しているにもかかわらず、思うがまま機能的に動く。
倒れたままマシンガンを握り、底守に向ける。
あとは引き金を引くだけ。
それなのに引き金にかかった人差し指は、微かに震えながらそこから一向に動こうとしない。
「道徳というのは古着みたいなものだ。つまり、誰かの使い古しだよ。君は新品を着ろ」
底守が銃口を向けられながら、子供に言い聞かせるような口調で話す。
だか、意味がわからない。いったいこいつは何を言ってるんだ。
「はぁ……まったく、ここまで言わないとわからないのか。僕を撃てないのは君の性格のせいかと聞いているんだ」
余計に意味がわからない。
俺の性格?
俺が優しいから撃てないのか?
いいや、そんなことあるはずがない。
俺は誰よりも醜く、それを誰にも見透かされないように包み隠してのうのう生きて、それで満足感を得るほどに醜い。
その醜さと俺は切っても切れない関係にある。俺とは醜さだと言ってもいいくらいだ。
俺は俺のためだけに生きている。
高梨と竹内を助け出し、また俺の横で、俺が苦労しないようにずっと側に付いていて欲しい。
もとより助け出さないなんて選択肢はないんだ。そんな糞みたいな罪悪感を貰うくらいなら……。
……そうか。
俺はこの引き金を引くことで、己の道徳の崩壊を恐れているんだ。
今まで世間から学習してきた道徳が、人を殺すことは悪いことだと、やってはいけないことだとそう訴えている。
だから人を撃つことで罪悪感が生まれてしまうことを予想し、この引き金を引けない。
いや、引けないんじゃない。
俺は俺を守るために、この引き金を“引かない”んだ。
「君はもう、世間から切り離されているんだ。もはや、世間体という服を着る必要はない」
指の震えが収まらない。
それでも怖い。
人を殺すのが怖いんじゃない。俺の心が壊れてしまうかもしれないことが怖い。
そうだ、俺はどんな状況であれ、俺以外のなにも考えてない。
「君のすべきことは、そこでただ震えながら僕に銃口を向けることなのかな? それならば一生そうしているがいいさ。僕は君を否定しない」
底守は背を向けて立ち去ろうとする。
ゆっくりと離れていくその背後から脳天を撃ち抜いた。
銃声の名残りが漂う静寂の中で、空薬莢がキンっと血みどろの床を跳ねる。
もう指の震えは収まっていた。
俺は俺のために、道徳を捨てた。
底守は歩みを止め、ぽっかりと穴が空いた頭蓋をぐるんと回してこちらに振り向く。
「背後から撃つなんて、卑怯じゃないか。いいね。とてもいい手段だ」




