バケモノ
「捜査局長? だってあれ、まだ子供だろ?」
少女の外見はせいぜい中学生ほどだ。
それがバケモノ小屋?
とてもじゃないが信じられない。
しかし、俺の問いに高梨は答えなかった。
焦燥とも怯えともとれる表情を浮かべながら、少女からものすごい速度で離れていく。
遠くから少女が、手に持つタイプのメガホンを取り出し、口元に近づけるのが見えた。
メガホンのキーンという音がうっすらと聞こえる。
『あーあー、えーと、高梨悠介。あなたはシナプス超伝達症レベル3を発症しているわ。今すぐ入院の必要があるの。大人しく確保されなさい。それと竹内祐一と松下宗一郎、あなたたちは……』
シナプス? レベル3?
訳がわからないことをメガホンを通して伝えてくる。
高梨の動物のような脚はそのシナプスなんとかの病気のせいなのだろうか。
いやいや、あり得ない。そんな病気、存在する訳ないだろ。
じゃああの脚は……。
なおもメガホンで訴えるが、その声も少女と離れすぎて聞き取れなくなった。
いったい、何が起きているのか。
高梨は何者なのか、あの少女はなんなのか。……今、どういう状況なのか。
疑問が多すぎて頭がパンクして破裂しそうだ。
後ろを振り返ると、もう少女の姿は木々に隠れて見えなくなっていた。
高梨を見ると、まだ焦っているようだったが少しの安堵もその表情から読み取れた。
周りにはもう住宅はなく、森になっている。
樹々が茂り、一面が緑一色に……おかしい。
止まっている。動いていない。いつから?
なぜ止まってるんだ?
「ダメじゃない。女の子の話を聞かないなんて」
目の前にに少女がいた。
それはただの子供に見える。子供が微笑んでいるだけのように。
見るところで見ればそれは可愛らしい姿に見えるのだろう。
今は、ただおぞましい。
「……バケモノがッ!」
高梨が吐き捨てるように言った。
先ほどまでものすごい速度で飛んでいた高梨は止まっていた。
いや、止められていた。
見ると、少女は高梨の胸のあたりを、手のひらを添えるように抑えていた。
高梨の両脇に抱えられた俺たちはただそれを見ていることしかできない。
少女が手のひらで軽く高梨の胸を押さえている。
それだけだ。
華奢なその腕で、あの速度をゼロにした。
少女と視線が合う。
こちらを覗き込むように笑顔を浮かべていた。
まるで水族館の魚でも見ているようなその表情に、全身がすぅーっと冷えていく。
なんだこいつは。
なんなんだこいつは。
……本当にバケモノじゃないか。
そして一瞬の浮遊感ののち、俺たちは何もできずにただ落下していく。
「おおおおわぁぁああ!!」
訳も変わらず、とにかくもがいた。
森に生い茂る木々に落ちたせいで葉っぱが皮膚を擦り、木の枝が身体を打ち付ける。
しかし、そのおかげで落下の衝撃が緩和されると思ったら、呻き声をあげながらそれに耐えるしかない。
そして枝がなくなったと思った瞬間、ドンっと胸を地面に強打した。
「がはっ……ッ!」
息が、息ができない。思わず胸を押さえてうずくまる。
土に顔を埋めるようにして全く動くことができない中、視界の端に可愛らしいリボンがついた黒い靴が見えた。
音もしなかった。いや、それどころか気配すら感じなかった。
こんなに近くにいるのに。
間違いなくこの靴の持ち主が、うずくまる俺の横に立っている。
その靴を見ただけで、嫌でも少女が俺を見下している光景が浮かんでしまう。
陸に打ち上げられた魚でも見ているように。
「ああああああああ!!」
高梨の声だった。
その声はこちらに向かってきていた。
やめろ。やめてくれ。
そう思ったのは、高梨の叫び声が悲痛にまみれていたからだ。
何が起きているかわからないが、頭上で風を切る音がした。
まるで高速でバッドを振り回しているように何度も、何度も、その音と風圧を感じる。
高梨はなおも叫び続けていた。
その声は悲愴感に支配され、もう死ぬことがわかっている少年の声のようだった。
視界の端には、少女の靴と動物の足が消えては現れてを繰り返す。
体が動かなかった。
息ができないからではない。ただの恐怖だ。
「速いわね。かなり努力したんじゃない? このままいけばもうすぐレベル4ってとこかしら」
風の音が消えた。風圧も。
ただの静寂が場を支配する。
高梨の叫び声は途切れ、かわりに声にならない濁音が漏れていた。
震えながら見上げると、高梨は血だらけで四肢の関節もありえない角度にねじ曲がっていた。
「うわあああああ!!」
赤ちゃんのように這いつくばりながらその場を離れた。完全に腰が抜けている。
目の前に迫る木の幹すら迂回できず、そのまま少女に振り向く。
少女が一歩ずつ近づいてくる。
じゃり、じゃり、という土を踏みしめる微かな音が耳にこびりつき、脳内で恐怖を増長させる。
やめろ、来るな。来るな。
少女の無表情がこの世の終わりを知らせているようだ。
周りの風景が、少女を中心にどす黒く滲んでいく。
そこには俺の小さな意思しかなく、身体は壊れた人形のように全く動かない。
ただ殺されるのを待つだけ。
「こっちだ……バケモノ女」
樹々の向こうに竹内が立っていた。いや、たしかに竹内だったはずだ。
それは、ぐちゃぐちゃと音を立てて肥大していく。
自分の目を疑うしかなかった。
今見えたのは竹内じゃなかったのか?
いや、竹内だった。竹内の声だった。
ボコボコと肉が盛り上がって、骨が軋む音が響くたびに、人間としての見た目がどんどん損なわれていく。
「……なんなんだよ、これ」
もうそこには、人間の姿はなかった。巨大で歪な血肉の塊のような物体があった。
それはあまりにグロテスクで、見た目だけで言えばバケモノは少女ではなく、あれだ。
竹内……だったモノは木の幹に触手のようなものを這わせて、それを抉り取った。
幹を抉られてそれに耐えられなくなった木がバキバキバキと音を立てて倒れていく。
少女はそれを見守っていた。
その目は新しいおもちゃを見つけたとばかりに輝いている。
血肉の塊が木片を少女に向けた。
その木片は徐々に黒くなっていく。
材質も鉄のように光沢を帯びたものに変化して、形はマシンガンのそれへと変わっていく。
「レベル……9」
そう呟いた少女の口角がこれ以上ないほどに釣り上がる。
「お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!」
くぐもったうめき声のようなものを発しながら、肉の塊が少女に向かってマシンガンを乱射する。
森に銃声が響き渡り、大量の銃弾によって舞い上がった土煙が視界を覆った。
理解が追い付かない。これは夢か?
なんだ、この非現実的な空間は。俺はいったいどこに迷い込んでしまったんだ。
こんなの……俺が住んでいた世界じゃないだろ!!
鼓膜が破れそうなほどの銃声は鳴り止んでいた。
土煙の中がどうなっているのかは見えなかった。
ただ望むしかない。
なにを?
少女の死?
少女が死んだところで俺の現実は返ってくるのか?
わからない。もうなにが起きてるのかわからない。
「……ふぅ、馬鹿で良かった。もうすこし厄介な物に変化されたら危なかったわ」
膝下まで土煙が下がった中に少女は立っていた。
周りの地面や木々は銃痕で埋め尽くされているのに、少女はもちろん少女の着ている服まで一切傷ついていない。
「竹内祐一、松下宗一郎。あなた達はシナプス超伝達症患者を匿った容疑がかけられてるって伝えようと思ったのだけれど……竹内祐一、あなたはレベル9、最高レベルの患者だったのね」
少女の手にはマシンガンが握られていた。
それは先ほどまで血肉の塊が手にしていたものだ。
それをなぜか、少女が持っていた。
もう人間ではない、バケモノ同士の殺し合い。
「大人しくなさい」
マシンガンから放たれた銃弾が肉塊を貫く。
肉のいたるところから血しぶきがあがり、小さな肉片が散乱していく。
視界が滲んでいく。
訳がわからない中で、ただ涙がこぼれる。
あれは、竹内なのだろうか。
頭では否定しながらも、俺を守ろうとしてくれたあれを心のどこかで竹内だと感じてしまっている。
竹内、なんでだよ。なんでこんなことになってんだよ。
少女のマシンガンは止まらない。
まるで作業のように平然と撃ち続ける。
やめろ。やめろ。やめろ。
恐怖でいっぱいだった頭の中が、別の何かに覆われていく。
それは怒りだ。
なんだこれ。
この理不尽な少女に理不尽に友達を殺されそうになっている。
そして今まさに、理不尽に俺の日常を破壊されている。
邪魔だ。
怒りが頭から降りてくるにつれ、恐怖は足先から抜けていく。
そして抜け切ったとき、俺は走り出した。
脳みそが、はち切れそうだ。
「やめろぉぉおおおおお!!」
手を伸ばし、少女のマシンガンを掴む。
空の薬きょうが排出されるところに、むりやり親指を詰め込んだ。
痛みは感じない。ただ、指の肉がちぎれ、骨が砕けたような感覚だけがあった。
少女は呆然とこちらを見ていた。
隙だらけだ。
その顔面に拳をめり込ませる。
喧嘩なんてしたことはない。でも、今は身体が思うように動いた。
メキッという小気味いい感触が拳から伝わる。
少女の鼻を砕いた。
そのまま少女は地面にぶっ倒れる。
……はずだ、はずだった。
俺が殴った少女が消滅した。
そして、ふと気づくと少女は俺にマシンガンを向けていた。
何が起きた? 俺は誰を殴った?
先ほどまでの光景はなんだったのか。
もはやどこからが夢でどこからが現実かわからない。
もはや少女に対する恐怖はない。
その感情をすでに凌駕してしまった。
もういいや。俺は人間だ。
バケモノの戦いなんてやってらんねぇんだよ。
俺は眉間に銃口を当てられながら少女をまっすぐ見る。
「お前、なんなんだよ」
少女は笑う。
「バケモノよ?」
銃声が鼓膜に突き刺さる。
頭に衝撃が走り、そのまま倒れた。
空に少女の顔が浮かんでいた。
血に染まった顔が。
俺の意識は、そこで完全に途絶えた。




