あやとり
竹内がいなくなったお陰で、俺の登校時間は日に日に早くなっていった。
今では教室に一番乗りするほどに。
それが、今回ばかりは裏目に出たかもしれない。
教室の扉を開けると、首を吊った綾取由奈がぶら下がっていた。
赤ジャージは着ておらず、制服は少しはだけていた。
トレードマークの金髪が力なく顔を覆う。
俺はそれをただ眺めていた。
理解するまで時間がかかった。
これは悲しみじゃない。怒りじゃない。虚無感だ。
……冷静になれ。
俺は教室の扉から手を離すことができずにいたが、徐々に下がっていく熱気のおかげで思考が再起動する。
そうだ。こんなことしている場合じゃない。
綾取に近づき、手を伸ばした。
そっと頭を撫でる。
うん、よかった。まだ生きている。
後ろで、生徒が悲鳴を上げた。
気づけば扉の周りには少しの人混みができていた。
しかし、教室にはまだ誰も入ってこない。
綾取の首を吊り下げてるロープを外して、床に寝かせた。
こんなに静かな綾取は、とても珍しい。
「おおおおおおおおお!」
教室のドアがぶち抜かれた。
ざわざわと喧騒に包まれた廊下がさらに騒がしくなる。
外れた扉を踏みつけながら、深迫が入ってきた。
深迫って、綾取のことになるとキレやすいよな。
「どういうことだ松下ぁあ!!」
深迫は俺の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
ああ、デジャヴ……。
「わからない。教室に来たら綾取が首を吊っていた」
「そんな訳ねぇだろッ!!」
深迫は怒ってるわけじゃない。
混乱しているだけだ。
だから俺には何もできない。冷静になるまで待つしかない。
「お前ら何してんだ!」
ああ、また厄介なのがやってきた……。
砂川が竹刀を肩に乗せながら大股で歩いてくる。
「なんだこの騒ぎは! 深迫、またお前か!」
前までは、深迫が何をしようが俺だけはお前をわかっている、といった態度を崩さなかった砂川だが、ここ最近はやけに厳しい。
不良の取り巻きがいなくなった深迫に、用はないと言ったところだろうか。
「お前はいっつも問題ばかり起こして、俺の身にも……」
説教している途中で気づいたようだ。
この騒ぎは、単に俺と深迫の喧嘩ではないということに。
教室の中央に倒れている一人の生徒。
「綾取……?」
ゆっくりと近づき、無言で立ち尽くす。
綾取がすでにこの世にいないことを悟ったようだ。
砂川の肩が震える。
「何だこれ……おい、死んでるじゃねぇか」
砂川の独り言に答えるものは誰もいない。
明らかにうろたえる砂川。
まあ、あんなことしたら自分のせいだと思うわな。
「…………違う、今回は違う、俺じゃねぇ、俺じゃ」
「おい」
深迫が砂川に声をかけると同時にぶん殴る。
相変わらず手が早い。
その目は血走っており、俺に喧嘩をふっかけてきた時とは比べものにならない怒りをあらわにする。
殴られて倒れこむ砂川の首を掴み、持ち上げた。
一人の大人を片腕で……何という腕力。
……俺もあの時、掴まれてたら負けてたかも。
「何を知ってる」
「……ぐっ、何も」
さらに顔面に一発。
周りの生徒から悲鳴が上がる。
砂川の鼻から血がぼたぼたと垂れた。
「言わないと、殴り続ける」
「お、まえ、こんな、ことして、がバッッ!」
さらに一発。
砂川の鼻が曲がった。そこから、まるで蛇口から出ているみたいに血が流れる。
歯も何本か割れて、口からも血が出ていた。
「……アガァ、わ、わかっ……」
急に首から手を離され、砂川はぺたんと座り込むようにうずくまった。
それを許さないとばかりに、髪を掴み顔を上げさせる。
鼻を両手で抑えている砂川に顔を近づけた。
「まだ、殴られたりないか?」
「俺びゃ、ない!」
「じゃあ、誰だ」
「しら、しらない……ッ!」
殴り続ける深迫を止める人はいなかった。
俺も、別に砂川がこのまま死んでもいいかなとすら思っていた。
こいつは綾取を殺した犯人じゃない。
でも、最低野朗だ。
「やめろよ……」
人を殴る音だけが支配する教室で、声が聞こえた。
不良グループの一人だった。
「龍くん、もう、やめろよ。死んじゃうよ」
その声は深迫に届かない。
不良が深迫の背中から手を回して抑え込むが、深迫は意に介さず殴るのをやめない。
「やめろよ! 龍くん!」
その叫びに、慌てて他の不良たちも深迫を止めようと集まってきた。
尚も殴り続けようとする深迫だったが、不良たちの必死の抑止により深迫は身動きが取れなくなる。
「本当はわかってたんだ。龍くんが、何で俺たちを避けるようにボスをやめたのか」
その言葉に、深迫の動きが止まった。
「綾取だろ? 不良やってたら、付き合ってる綾取が狙われるからだろ?」
……え? そうなの?
「あ? 違ぇ……」
「誤魔化すなよ。最初は、俺たちより女とるのかって腹たったけど……でも、あとで知ったんだ。俺たちが舐められないように他校の奴らボコボコにしてくれたって」
なんか、俺の知らないことが次々と……。
でもたしかに、さっき綾取から回収した情報によるとそれは事実らしい。
「……それは、別にお前らの為じゃねぇ」
「じゃあ何のためだよ! 俺、見たんだ。龍くんが血だらけになりながら、他校の奴らと戦ってる写真。何枚もあった。綾取の部室に」
「………………」
「俺、わかんねぇけど……こうなっちまって、どうしたら良いのかわかんねぇけど……龍くんのこと支えるからッ! ……だから!」
「お前らなんかに支えられなくたって、俺は大丈夫なんだよ」
深迫が砂川から離れ、綾取のそばに座り込む。
それから警察が来るまで、深迫はそこから離れることはなかった。
不良たちも深迫の後ろで、静かに立っていた。
﹅﹆﹅﹆
底守との訓練はもはや人間とのそれを想定していなかった。
今、俺は“液体”と戦っている。
「このくらいで苦戦してちゃあ、先が思いやられるよ」
「……どうしろってんだよ!」
斬ろうが、撃とうが、殴ろうが、全く効かない。
だが、俺のいる世界はこういう敵を想定しなければいけないほど現実と離れてしまっている。
「いいかい。常に冷静でいろ、敵は人間だ。少なくとも心は人間なんだ。恐るに足らない」
底守がぽちゃん、と地面の中に入っていった。
まるでそこが水面のように。
そして、地面が水のように揺れ動く。
聞こえる。
水の音が……。
遠くから、波が押し寄せてくる。
何もかもを巻き込む、津波が。
「恐るに足るわ! バカ野朗ぉおお!」
「ハッ?!」
「やっと起きたかい? もう夜だよ……まだやるかい?」
気絶していたのか。
夢の中で気絶ってどういうことなんだ。
横たわったまま、まだ湿った髪を掻き毟る。
「なあ、底守……」
「なんだい?」
「もし、俺が私的な恨みだけで人を殺したらどうする?」
底守は少し考えて、チラッと横目で俺を見ながら答えた。
「別にどうもしないさ」
「は?」
「別にどうもしない。力を持つものは、それをどう使おうが自由だ」
「…………そんなやつ鍛えて良いのかよ?」
底守が屈託のない笑みを向ける。
「君はそんなやつじゃないと確信しているからね」
「…………そうかな」
ふと視線を動かすと、真っ黒な少女がジトッとした目でこちらを見下ろしていた。
「うわっ!」
なんで浅倉緋奈がここに……。
底守を見ると、僕もわからないよとばかりに首を傾げる。
浅倉は倒れている俺に顔を近づけた。
「もし、憎悪にのまれそうならいい方法があるわ」
「いい方法……?」
「松下宗一郎、あなたはアサクラ記念病院調査局の局員なの。保護対象であるシナプス超伝達症患者を拘束する権利がある」
そうなの?
底守はニコっと意味深な笑みを浮かべる。
こいつはなんの役にも立たないと判断した俺は浅倉に再度聞いた。
「それで……?」
「貴方をアサクラ記念病院調査局の権限に基づき、拘束します」
浅倉はしゃがんで、俺の頬を撫でた。
妖艶な笑み。
それは、今の俺にとってあまりにも恐ろしく感じた。
「それを言えば、あなたは私怨じゃなくて仕事でやってるってことになるでしょう?」
「……あー、そう、かな?」
撫でる手が顎に触れ、そのまま持ち上げられた。
「あなた、今どこにいるの?」




