投資
絵の具はアクリルグアッシュ、不透明絵の具を使った。
憂花のノートを見た香織としては、油彩画を描かせたいという気持ちもあったが、はたしてこの菫のように燃える儚げな少女の情熱がいつまでもつづくだろうか —— つづくにしても、その温度を安定させるのは容易ではないだろう —— という不安が、より手軽に制作を進められるアクリルグアッシュで描かせることを彼女に選択させた。
アクリルは油彩よりもやわらかく、乾燥すると水分が抜けて薄くなるため、油絵のような厚みのあるマティエール —— 絵肌、材質感 —— をつくることは困難だが、テクニックを駆使すればそれに近いものをつくることはできる。
制作場所は、純喫茶ムーランのテーブル席。客用のテーブルだが、絵の具で汚れることを香織は気にしなかった。
ひっそりとした喫茶店で、ほとんどの客はカウンター席を使う。訪れる客といえば、母親が店主だったころからの常連客 —— それも、日にひとり来るか、来ないか ——、もとより利益が上がらず、惰性でつづけているような部分もあったため、香織の情熱はテーブルを清潔に保つことには向かなかった。
というのもあるが、彼女が憂花に話し、また自身もなかば信じている要因のひとつとしては、こういうものもあった。
「利休の茶室」
「なに、それ」
「千利休の茶室に入るには、潜戸を通らなければならなかった。天下人、豊臣秀吉でさえも、頭を下げて腰をかがめなければなかに入れなかった。わかる?」
「……ん?」
「主人と客とは対等でなくちゃならない。つまり、自分の店に招く以上、私は客に絵の具のついたテーブルを提供する権利がある。客にはもちろん、断る権利があるけれど」
「そんな解釈、利休さんに怒られない?」
「会わないから」
香織はスペースと画材、そして、かつて亡き母親から教わっただけの絵画に関する知識とを憂花に提供した。—— 投資した —— といってもいい。構図や色彩感覚に関してはほとんど憂花の感性を信じた。ただし、その感性にじっくりと影響を与えること —— 針金を指で補正するように、それとなく形を整えること、—— それは惜しまなかった。
じっさいに肖像画が完成したのは九月、憂花の通う高校の夏休みがちょうど明けたばかりのころだった。