水槽の熱帯魚
* 六角憂花 *
昼前の教室。
桜の葉は青みを増したが、授業風景はあいも変わらず。
「『マラーの死』ってのも、マラーを賛美したダヴィドが誇り高く美しい死体を演出した絵画だな。『マラーの死』といえば、十九世紀末にはあの有名なムンクも描いているが ——」
世界史教師の大音声が響きわたる。
そっと窓を開けたのは、窓際の席の留木蓮実 —— 憂花のなかの「ときめき君」—— で、心地よい風に癒された生徒たちは彼に賛美の視線を送る。
ときめき君はかがやいている。憂花にとっては常にそうだが、それでもやはり、じっさいに陽光を浴びている瞬間を見ると、そのたびにどきりとするような美しさが彼女の心を打つ。
これをたとえるならば、美術館で見た絵画が気に入って、その絵のプリントされた壁絵を毎日見ている人間が、ふたたび実物を目にしたときに感じる「やはりこれだ」という感動にも似ている。—— 壁絵に満足していないわけではないが、やはり壁絵にはかなわない感動が実物にはあるのであって、憂花にとっての実物とは、教室の隅や廊下で見かける彼の姿ではなく、—— 窓際の席で陽光を浴びている彼の横顔 —— にあたるのだった。
—— ああ、この瞬間が、永遠になればいいのに……。
チャイムの音とともに、生徒たちは立ちあがる。もちろん彼も。
それは、窓から吹きこむ爽やかな風にも止めることはできなかった。
* 上条香織 *
金曜の夕方。
いつものように純喫茶ムーランをオープンさせる香織。入り口を開けてから店内を整えると、早くも来客があった。
「香織さんっ」
頬を赤くした可憐な少女。額にはみずみずしい汗が滴っている。
「どうしたの、そんな息切らして。なにかあった?」
香織は彼女を焦らすようにわざとゆっくり問いかけるが、相手はかまわず早口に言った。
「私、すごい才能に気づいたの。絵の才能がね、すごいのよっ」
憂花は通学鞄をカウンターへ置くと、中からノートを取り出し、下敷きの挟まっているページを開いた。
A4サイズのノート一ページ分を使って描かれた少年の横顔。シャープペンシルで描かれた輪郭に、色鉛筆で色づけがされている。
描かれた少年は、無造作なマッシュヘアが特徴的だが、いたって平凡な顔立ちでもある。平凡な顔立ちにもかかわらず彼が魅力的に見えるのは、おそらく描き手自身の印象がポジティヴなものであるからだろう。—— 印象 ——、それはきわめて個人的で主観的な観念にすぎないが、それを目に見える形で再現してしまったときには、恐ろしいほどよく他人に伝わってしまうものでもあるのだ。
それだけじゃない。—— 香織は思った。シャープペンシルによる素早い素描。そこに、記憶を元に後から載せられたと思われる鮮やかな色彩。この少女には、絵の才能があるのだ。絵の —— 芸術の —— 才能が……。
香織はあらためて、目の前の美しい彼女の姿を眺めた。芸術的な感情に囚われた若い少女はまるで熱帯魚のよう、—— 恋という名のガラスのうちを自由に泳ぎまわるエンゼルフィッシュ —— のようにも思えた。
—— 与えたら、食べてくれるかしら……。
「ねえ」
香織は尋ねた。
「え?」
少女が聞きかえす。
「絵の具で、描いてみる……?」