聖夜の会話
* 六角憂花 *
甘く優しい玉ねぎの匂いをふくんで立ちのぼる湯気から顔を上げると、視線の先には、同じようにスープの香りを嗜むときめき君のうっとりとした微笑みがあった。
香織の兄が作った料理は彩りにあふれていた。—— テカテカ光るオレンジ色のチキンに合わさった優しい色のバジルソース、また、サフランライスの鮮やかな黄色に紫がかったムール貝の殻がとてもよく映えていた。
この幸福な食卓を囲んだ四人の聖夜は、異常なほど静かに幕を開けた。香織はいつになく無口で、憂花とときめき君の様子を交互に見守っていたし、憂花は憂花で、優雅に食事を嗜むときめき君の姿に夢中だった。
やがて会話らしい会話を始めたのは、ときめき君と香織の兄、男性ふたりだった。目の前の料理に関する話から始まり、ふとしたきっかけで文学の話が始まった。
「俺はあまり読書家ではなかったんだけど、妹や母が本好きだったのもあって、最近ちょっとずつ読むようになったんだ」
香織の兄が言う。
「そうそう、あれを読んだよ。ほら、香織、あの……母さんが好きだったやつ。チェーホフの『かもめ』って戯曲さ」
「『かもめ』ですか」
香織の代わりにときめき君が返事をするが、香織も兄の方を向いて、その話に耳を立てていた。
「母さんもそうだったが、香織も多少文学的というか、俺なんかにはついていけない部分が多くてな。少しでも話ができたらと思ってさ」
「あの話はおもしろいですよね。どのキャラクターが好きでした?」
「キャラクター?」
「ほら、たくさん出てくるでしょう」
「うーん……」
香織の兄はしばらく考えた後、
「キャラクターっていうよりも、湖が印象的だったな」
そう答えた。
「あの話のキャラクターというと、みんななかなか幸福とは言えないじゃないか。だから、単純に『好き』と言ってしまうのが、どこか不謹慎に感じてしまって」
「へえ、不謹慎?」
「ああ。……いや、わかってるんだ。あれはそういうのを笑って楽しむ喜劇なんだって。だけど、人間という存在がすごくリアルに描かれているせいか、気づくと真面目な顔をして読んでしまっている自分がいるんだよな。感情移入っていうのかな」
「ピュアなんですね」
「そうかもしれない。……ただ」
香織の兄は、いたって真面目に、しかしどこか遠くを見るような目をしてことばを継いだ。
「湖という象徴であれば、なんでもゆるされるような気がするんだ。—— 水もそうだけど、火もだ。—— 万華鏡をのぞいたときのような、目眩にも似たなにかが、善悪の判断など関係なく人間を操ってしまう……そんな力を持っているような気がする……曖昧だが退けがたい存在。—— 芥川龍之介の『地獄変』ってあるだろう、あれを読んだときにも感じたんだ。良秀って人はとても倫理的じゃないし、あれを『好き』と言うのはとてもじゃないが、抵抗がある。でも、あれを読んだとき俺は、怒りや憤りではなくて、もっと別のものを感じた。良秀が、とてもリアルな人間に感じられたというか……。—— 俺は、それを火のせいにした。—— とにかく、人間の理屈では説明できない、どうにもならない人智を超えたなにかがあって、そうなってしまうのは当然のことで、仕方なかったんだって……、なんか、言い訳したくなるんだろうな」
三人の聴き手は、静かに耳を傾けていた。
やがて、ときめき君がくすりと笑い、
「驚いた。お兄さんみたいな人が、あの喜劇を読んでそんなことを考えるなんて。—— ねえ、思わないですか」
香織に向かって問いかけた。