香織の不安
二十四日の午前中、香織は完全に油断をしていた。
昼過ぎになって純喫茶ムーランに顔をのぞかせると、そこには毎年のように彼女の兄がいて、ディナーの用意をしていたが、
「ひとり増えたぞ」
「なにが?」
「お客が」
小気味よく包丁を鳴らすカウンター越しの兄の背に怪訝な顔を向ける。
「昨日来た子から、朝早くに電話があってな。よくわからないが、ときめき君って子も一緒に行っていいかって」
「だめ!」
反射的に香織は応えた。が、
「そう言うと思ってな。ひねくれ者の妹が起きてきたら、きっと話がこじれるだろうからと言って、俺の独断でオーケーしておいた」
「なんてこと ——」
「味見するか」
香織は首を横に振るが、それを見た兄は小皿に載せたカスタードクッキーをカウンターの端へ置いた。
「結局また出すことになるからな」
この男、張り切っている日は妙に調子がいい。ふだんの香織であれば、そんなところも含めて兄の愛嬌のある性格だと内心でからかってひとり楽しむのだが、このときの彼女にはそういった余裕はなかった。香織はすでに、自信の不安がどこに起因しているのかを分析していた。
—— 憂花のいう「ときめき君」は、留木蓮実、実在するあの子の同級生その人のことではないわ。私がきっかけを与え、あの子が像を描き出して、そしてついには夢にまで現れるようになったあのいまわしい幻影。……そういえば、夢に関しては、私だけがうなされているという可能性も……? あの子がみずから作り出したまぼろしに熱を上げていることはたしかだけど、あいつが意思を持ってあの子の夢の中へ現れて、可憐なあの子を誘惑して、陶酔させて悪いほうへ導こうとしているだなんていうのは、あくまでも私の脳内に住み着いた「彼」が、私だけに見せている悪夢にすぎないのかもしれない。……でも、そうだとしたら、あの子が連れてくるときめき君って? ……やっぱり、現実の留木蓮実、本人ではない。あの子は今日まで学校には行ってなかったはずで、本物に会って仲良くなる機会なんかなかったのだから……。
「ところで、あの子さ」
兄は構わずつづけた。というより、妹の困惑にてんで気がついていないようだった。
「どことなく、母さんに似てないか」
「……え」
何気なく発したであろうそのことばが、香織の不安をさらに強くした。なぜかわからない、得体の知れない寒気のようなものに襲われた彼女は、みずからを安心させるべく、喫茶のカウンターへと手を伸ばした。
「ほらな。やっぱり食べるんじゃないか」
兄の声が、ひどく間延びして聴こえた。