失われた「生活」
* 上条香織 *
上条姉弟のクリスマスイブは、純喫茶ムーランでのホームパーティと決まっていた。
仕事の関係で家にいる時間の少ない香織の兄だが、毎年十二月二十三日になるとかならず喫茶室を訪れて、パーティのための準備をする。具体的には部屋の掃除だ。そして二十四日になると、近所のスーパーで食材を調達して調理をする。
料理をするとき、彼はいつも一昔前の流行歌をハミングするのだが、香織は兄の鼻歌を聴きながら、ソファでひとりコーヒーをすするのが、ひそかな楽しみだった。
「やっぱり家は落ち着くな」
時々、独り言のように兄がなにかをつぶやくと、香織はわけもなくおかしくなって、コーヒーを噴き出しそうになる。
この家のクリスマスパーティには、他とは違うもうひとつの目的があった。十二月二十四日は姉弟の母親の誕生日でもあり、父母の存命していたころには、毎年家族そろってのホームパーティが行われていた。
母親の晩年は彼女自身が精神に支障をきたしていたためにパーティどころではなかったが、それでも形だけでもと、香織の兄はチキンを焼き、サフランライスを炊き、サラダを盛りつけて、—— 純喫茶ムーランのテーブル席に料理を並べた。
***
姉弟の母が世を去った年のクリスマスイブの夜のことを、香織はよく覚えている。
香織は、十八の頃から四年間、夫を亡くした母親の面倒をずっと見てきた。大学進学を諦めて母のそばにいることを決めたのは、父親の訃報を聞いた母が真紅の薔薇の花びらのなかに座りこむ姿を見てしまったからだ。—— もとより繊細な気質だった彼女の母親は、報を聞いて取り乱し、剪定途中だった薔薇の束を掻きみだして、みずからの両腕を血で染めていた。—— この人をひとりにしてはおけないと思ったのだ。
しかし、ひとり家に残って母の面倒を見るというのは、想像以上に大変な仕事だった。香織は母親の趣味 —— 絵画や音楽、芝居などの芸術鑑賞やその話題 —— に付き合い、そして荒んでいく彼女をなだめながら毎日を過ごした。時には、仕事へと出かけていく兄を恨めしく思うこともあった。
その母親が亡くなったとき、香織は、生活のすべてから解放されてしまったように感じた。そうして、じつはその「解放」は四年前からすでに始まっていて、しかし今になってようやく「生活」というものに放り出されてしまった実感を自分は得ているのだと、彼女にはしだいにそのように思われてきた。—— もはや、周囲の生活を忘れてしまい、面倒を見るべき人も失くし、置き去りにされた自分には、もうなにも残っていないのではないか……そういった思いにさいなまれた。
そんなときだった。
クリスマスイブの夜、自室のベッドに座り込んだままぼうっとしている香織のところへ、兄が入ってきて言った。
「パーティをやるぞ」
「……」
彼女はうつろな表情のまま、そばに立つ兄へ首から上だけを向けた。
「おい、びっくりするじゃないか。急にそんなに眉をしかめるなよ」
兄はそう言ったが、眉を動かしたつもりなどない。自分の表情など、すでに消え去ったものと思っていた。
「お前は昔っから、よく俺にそういう顔をするよな」
兄は苦笑したが、そのまま香織の手を取ると、黙って部屋から連れ出した。香織には抗う意思もなく、兄にされるがまま身を預けてあの喫茶室へと移動したが、そこには、目を見張るような光景 —— あくまでも外観だけではあったものの、細部まで丁寧に再現された佳い過去のかたち —— があった。
「母さんにとって、大事な店だったんだ。守っていくのが子供の義務だろう」
その後、香織が純喫茶ムーランを継いでいくことが決まった。
香織は、今もこの喫茶室にしがみつきながら、彼女の日常を送っている。