パーティへの招待
* 上条奏 *
十二月二十三日、午後。
「なんだ、意外とちゃんとしてるじゃないか」
純喫茶ムーラン。
埃を被った薄型時計や絵の具のついたテーブルを目にしながらも、上条奏は安堵の笑いを見せた。そのせいできまりが悪くなった香織は、その鼻先を天井へ向け、わざとあくびをしてみせる。
上条奏 —— 香織の兄 —— は、両親の遺した古い家で妹とともに暮らしていたが、いまや上条家の家計を担う若き大黒柱である彼は家で過ごす時間も短く、朝は香織の起きぬ間に出かけていくのが常で、職場のある都内に親戚宅があることもあって、自宅へ帰らないこともしばしばだった。
しかし、彼がこの喫茶室に滅多に立ち入らないことには別のところにも理由があった。
「おお、ルノワールじゃないか!」
奏は、ルノワールの絵画『田舎のダンス』のプリントされた壁絵に目を留めた。
『田舎のダンス』 —— 『都会のダンス』『ブージヴァルのダンス』とともにルノワールのダンス三部作に数えられる作品。男性モデルは三部作通してすべて同一の人物だが、女性モデルは『田舎のダンス』のみ異なっており、画家自身の妻がモデルとなっている。屋外のカフェで踊る男と女。女は相手の男に身を預けて踊りながら、その笑みはこちら側へと向けられており、庶民的で楽しげな日常風景の感じられる幸福の絵画だ。
「だから言ってたじゃない、ちゃんと掛けてあるって」
「誤魔化しかと思ってたよ」
平然と言ってのける兄に、香織は苦笑する。
「ほら、親子だって絵の趣味は違うだろう。お前のことだから、別の絵に変えてしまっているかと思ったんだ」
「たとえば?」
「そうだなあ……」
「『世界の起源』とか?」
香織は意地悪く微笑むが、
「なんだそれ。タイトルを聞くかぎり、壮大なロマンだな」
「ロマンかもね、男にとっては」
「女には?」
「リアリズム」
入り口のドアが開き、パイプチャイムの三重奏が響いた。
***
六角憂花と上条奏 —— 初対面のふたり —— は、沈黙の挨拶を交わした。
「どうしたの、ふたりとも」
可笑しそうに —— あるいはふしぎそうに —— 香織が訊いた。
最初に口を開いたのは奏のほうだった。
「はじめまして。香織の兄です、上条奏です」
「あ、どうも……。えっと ——」
「六角憂花、可憐な十六歳の女子高生です」
からかうように香織がことばをつづけた。
少女は一瞬ぼけっとした表情を見せたが、すぐに口を尖らせて、「もう」と香織を責めた。
ふたりのやりとりを見て、奏は微笑んだ。
「この子が電話で言ってた子か。いや、いい子そうじゃないか」
「悪い子なんて一度も言ってないわよ」
「そうなんだけどな、いつからかお前の声に妙な艶があるような気がしてたから、困った悪友でもできたんじゃないかって心配してたんだ」
本気とも冗談ともつかない口ぶりで彼は言った。
「でも良かったよ、香織。お前にこの店を任せてたのは正しかった」
そう言うと、香織はおどけたようなしぐさで肩をすくめてみせた。
「そうだ香織、明日のクリスマスパーティにこの子も呼んだらどうだろう」
「え」
「母さんにも報告しなくちゃ、この店のおかげで親友ができましたって。な?」
兄の提案に香織が憂花のほうを見やると、
「私も、いいんですか」
「よし、決まりだな」
こうして、彼の発案による憂花のパーティへの招待はすぐに決まった。