仮の世界
* 上条香織 *
甲高い音とともに、香織は我にかえった。
—— え……、なに……。
ふと見ると、壁にかけてあるロートレックの絵『二日酔い』—— シュザンヌ・ヴァラドンという女性をモデルに描かれた、気だるげな女性の横顔 ——、香織には、ちょうどその頬の部分が陥没しているように見えた。
薄気味悪く感じたが、原因はすぐにわかった。真下の床に、コーヒーカップの破片と白茶色のコーヒーとが散っていたのだ。
—— 夢、だったの……?
気がつくと、自身の身につけた薄紫色のセーターにも、コーヒーの染みが浮かんでいた。
* 六角憂花 *
「もうやんなっちゃう」
いつの間にか、笑う蜘蛛はまた憂花の肩に載っていた。
「いつからいたのよ」
「ひどいなあ、ずっといたって」
そう言ってまた、ニタリと笑う。
「気がついていると思うけど、君はゲームの主人公……というより、プレイヤーなんだ」
「なによ、出し抜けに」
「お味噌汁は出し抜きで」
「それじゃ美味しくないでしょう」
「じゃこれからは、脱線抜きで。—— いでっ」
憂花は顎先で笑う蜘蛛を小突いた。
「で、なにが言いたかったの」
「ああ、そう。君はゲームのプレイヤーなんだ。ということは、ここは架空の世界なわけで」
「あなたも偽物ってわけね」
「……まあ、そもそも夢なんだから、そうなんだけどさ」
「どうせ夢なら、もっとかわいいキャラが良かった」
「その夢を見ている君が変わり者なんだから、仕方ないね。人は見かけに —— いでっ」
「全身の毛髪引っこ抜いてやろうか」
「……さすがに、キャラぶれてない?」
ゲームの中ではなんでもできる。—— なんでもというと語弊があるが、—— たとえば、ふだんは優しい友人が、ゲームの中では平然と人を殺していたりする。
憂花は中学生のとき、快活な同級生の少女がゲーム画面に向かって嬉々として「死ね」を連呼しているのを見たことがある。—— 憂花はその友人の家ではじめて対戦型のテレビゲームをプレイしたのだが、彼女は憂花の操るキャラクターに向かっても同様のことばを繰り返していた。
「楽しかったね、また対戦しよう」
帰り際、表裏のない無垢な笑顔でそう告げた少女の声と表情とが、憂花の記憶の中に色濃く刻まれていた。
ゲームにかぎらず、仮の世界であるとわかっているときには、人はふだん行わないようなことも平気で行うことができる。そして、そのことに対していくらか —— あるいはほとんど完全に —— 自覚的である場合もある。
なんらかの事情で、一日だけ周囲に対してカップルを演じる羽目になった男女が、調子に乗ってほんとうの恋人のように振舞おうとする —— そのときの彼らは半分自覚的であり、また自覚的であるからこそ、たがを外すことも多くあったりもする —— いつの間にか、現実との境界線が見えなくなってしまう。
「ねえ」
「ん?」
「ロミオとジュリエットってさ、自分たちがお芝居の登場人物だってことを知っていたんじゃないかしら」
憂花のことばに、蜘蛛はニタリと笑った。