本物の恋
「六角さん、ちょっと……」
稽古の最中、演出担当の三年生の女子生徒に憂花の芝居は止められた。
「なんです、先輩」
恋心に酔った滑らかなくちびるは、そのセリフを止められた不満を、無意識に先を尖らすことによって表していた。
「六角さん、あなたには、ちゃんとロミオが見えてる?」
「え」
「ちゃんとロミオを見て、芝居をしているの?」
「え……」
稽古をしているのは、『ロミオとジュリエット』第二幕第二場、有名なバルコニーのシーン。
演劇部では早くも秋の文化祭公演に向けての準備が始まっており、憂花は一年生ながらその情熱を買われ、かの名作のヒロインを演じる機会を得たのだった。
「たしかに、あなたはバルコニーの上にいて、近くにロミオがいることに気づいていない……そういう設定よね。だけどね、あなたの意識には、かならず相手がいなければならないのよ」
「わかってますよ。ジュリエットにはロミオが見えている。舞踏会で出会った、ロミオの影が、まぶたの裏に残ってるんだから。『ああっ、ロミオよロミオ ——』」
演出担当はため息をついて、憑かれたように情熱のセリフをまくしたてる新人役者のようすを眺め、ロミオ役の二年の男子生徒を気の毒に思った。「あなたは眼中にないってさ」—— 彼は演出の指示も待たず、自販機で買ったペットボトルに口をつけて飲んでいた。
芝居にはかならず相手役がいる。相手役がキャスティングされている場合、それは独白のシーンであっても変わらない。憂花の意識すべきロミオは、今まさにおなじ稽古場の片隅でのんきにお茶を飲んでいる彼、そのほかにはいないというのに、—— 憂花は、まったく別のものを見ていた。なにかが彼女を惑わせていた。それはもしかすると、彼女自身のほんとうの恋心なのかもしれないが、—— そのリアルな情熱でさえも、ロミオ役の彼に向けられたものでなければ、彼女の内にこもった見応えのしない、ひどく味気ないものにしか思えない。つまり、それでは観客には伝わらない。
「あなたの見ているのは、幻想のロミオよ。ちゃんと見なさい、彼の演じるあなたの恋人を」
***
「先輩は、本物の恋をしたことがないんですよ」
心ゆるせる喫茶室で、決めつけるように憂花は言った。彼女の口許には、新たな発見に対するうれしさと、それを他人に先んじて見出したのだという誇りが表れていた。
「それで今日、部室に入るなり、退部届を出してきたんです。みんなびっくりしてましたよ。なんでかって……」彼女は黒い両の瞳をかがやかせ、いたずらの色を浮かべて言った。「みんな、なんで私が辞めるだなんて言いだしたのか、まったくわかってないんだもん」
店の主人は、柔らかく丸めた手の甲に細い顎を載せて、うら若い少女の告白に耳を傾けていた。
「私は馬鹿だった。私が女優になりたいなんて言えたのは、恋を知らなかったからよ。ジュリエットのように恋をして、味わってみたかったのよ、あの —— 快楽 ——、そう、快楽を。でも、それは幻想にすぎなかった。お芝居のなかの恋は本物の恋じゃないわ。それが今ではわかるの。先輩にはそのことがわからなかったみたいだけど……」
そこで彼女は、また新しいなにかを発見して目をかがやかせた。
「そういえばあの日、最後に先輩は言ったわ。前の稽古のときはこんなんじゃなかった、って」憂花の表情に優越感が増す。「先輩は気づいたんだわ。ただし、それが恋のせいだっていうのがわからずにね。恋のエネルギーは外からでもわかるけれど、その中身は恋した者にしかわからない。恋は人の目を見えなくする? それって逆だわ、むしろ開かせるのよ。私の目は覚まされてしまった。真実の恋を知ってしまった。だからもう、逆に幻想の恋は見えなくなってしまったのね。幻想は夢、だから、目を覚ましてからじゃはっきり思い出すことはできない。眠っている人にしか価値がないんだわ。だから私には……」
香織の目を見て、憂花は結論を言った。
「私には、お芝居が必要なくなったの」