ふたりの夢
* 上条香織 *
息苦しさに瞼を開くと、香織は自分が草の上へ身を横たえていることに気がついた。片肘を顔の横へ上げた状態の気だるげなアリアドネポーズ ―― その古典的な恰好と情景は、ラファエル前派の絵画を思わせる。
あたりは靄がかっていて、視界が悪い。香織は頭痛を覚えた。
―― 夢……?
***
湖のほとりを歩いていた。
白い靄に被われた水面は遠くまでつづき、空との境にはかすかな青い稜線が見えた。どこかで水鳥の鳴き声があがった。
古びた桟橋を見つけた香織は、惹きつけられるように足を運び、それを渡っていった。足下には、揺れる湖の面が靄の膜を透して見えた。
―― 寒い……。
どれくらいか、ほとんど放心の状態で歩きつづけた先に、高校の制服を着た男子生徒が姿を現した。
―― ときめき君……。
わずかに顎を上に向け、彼は蔑むような目をしてこちらを見つめてくる。―― その眼差しが、ゆっくりと香織の手元へ向かって下がっていく……。
「いやっ!」
いつの間にか抱えていたなにかを香織は放った。―― しかし、それはいったんは靄のなかに沈んだものの、ふたたび浮き上がって香織を足下から見つめた。
香織は咄嗟に足を振り上げ、それに向かって振り下ろした。
―― 消えろっ、消えろっ……!
***
気がつくと、香織は自室のベッドの上にへたりこんでいた。
―― 私は……。
テレビが点いていて、『マクベス』の公演映像が流れていた。―― ちょうどマクベス夫人が、自身の犯した罪を洗い流そうと手を擦りあわせているシーンだった。
―― 疲れてるのね……。
香織はテレビを消し、気分を落ち着けるためキッチンでコーヒーを飲もうと考えて部屋を出た。
* 六角憂花 *
鶯の鳴き声が響く森林の川を憂花は流れていた。—— 木のボートの上に仰向けの状態で寝ているため、風に揺れる枝葉とその合間からのぞく青空が憂花の視界のほとんどを占めていた。傍らに広がる葦の葉も時折目に入りはするが、—— どういうわけか、首が動かないために横を向くことはできなかった。身体を起こすことも、腕を顔の上へ持ち上げることもできなかった。というより、—— 憂花には、頭部以外の感覚がなかった。
さらさらと流れる水の音、そして鶯。—— それらの音を聴きながら、憂花は森林浴を楽しんでいた……。
***
どれくらい流れていただろう。やがて目を閉じた憂花の耳に、優しげな歌声が聴こえてきた。
桃色の夕日を浴びた神殿
ふと酔いが覚めてしまったバッカスの信女は
切り裂いた魂の詩人を想いだして
おしよせる後悔の念に心をひたす
—— この声……。
人はみな怒りくるい
音楽に酔って殺しあう
そうしてそれぞれその目を開き
しずくを光らせる
—— 香織さん……?
誰かに愛されたくて、認めてほしくて
ちっぽけな自分を隠してしまいたくて
きっと僕らはみんな同じうたを奏でているのに
気づかずに残ったものはただひとつの竪琴だけ
優しげな歌声に浸る憂花の瞼には、別の光景が現れはじめていた。
ピアノを打ち鳴らす、茶色い髪をした女性、—— 額縁の中から現れた紳士、—— 女性の涙を紳士が拭い去って、—— 紳士はヴァイオリンを鳴らし、女性がピアノを弾く……。
—— これって……?
額縁の紳士と同じ顔をした紳士が、空の向こうで息絶える、—— 女性が薔薇の花をめちゃめちゃにする、—— 額縁の紳士が現れ、女性の耳元でなにかささやくが、女性は、紅く染まった手で、その紳士を押しのける。そして……、
歌声が遠ざかって、憂花に見えていた連続の光景も、瞼から消えていった……。





