偽物
「おはよう」
そう言って、憂花の母親はカーテンを開けた。薄暗かった部屋に明かりが差す。
「気分は?」
「そんなに悪くない」
「そう。……熱は?」
「これから測る」
憂花は枕元の体温計を取って、脇に挟んだ。
「脇を拭いてから挟まないと」
「大丈夫だって」
言いながら、枕元へ置いておいたカップのスポーツドリンクを口に含む。
このまま出ていくかと思うと、憂花の母親はベッドの縁に腰掛けて話し始めた。
「香織さんって、いい人ね」
「え」
「あなたが倒れたとき、看病してくれたでしょう」
「ああ……」
ここ数日のあいだ、憂花の脳内から香織の存在がすっかり抜け落ちていた —— まるでだれかが彼女の記憶へと入り込んで、細工をしたかのように。—— 少なくとも、憂花自身はこのときそう思った。
「あのあと、家にも電話くれたりしたんだけど」
「香織さんが? ……なにか言ってた?」
「あんたのこと、心配してたわよ。治ったらまたお店に来て、元気な顔を見せてちょうだいって。頼むからって」
「香織さんが、そんなことを? ……まさか」
体温計が鳴った。
「大丈夫みたいね。ご飯、降りてきて食べなさいよ」
母親は、数値を確認すると出ていった。
ひとりぽつんと残された憂花は、自身に問いかけた。
—— どうして? どうして私……、「まさか」なんて、思ったの……?
肖像画はなにも言わなかった。
***
「きゃー!」
「そんな、驚かないでよ」
憂花の目の前にいたのは……。
「王子さまっ、なんでそんなお姿に」
「王子じゃないって」
「……」
二分間ほど固まったあと、
「よかった、王子さまじゃないのね」
「なんか、複雑な気分だなあ」
そう言いつつも、蜘蛛は笑った。—— 黒い毛に被われたその蜘蛛は十本の長い脚で床の上へ立ち、身体の正面には人間のような目鼻と大きな口とを有していた。全長約二十センチ……蜘蛛にしては大きい。
「で、王子さまは?」
「それがさ、ちょっとどっかへ行っちゃって」
「どっかって?」
「さあ」
にたりと笑って、蜘蛛は言った。
「探しにいったら?」
***
憂花が小屋から出ると、そこは歓楽街のような場所になっていて、赤い提灯が方々にあってあたりを照らしていた。—— つまり、夜だった。
シルクハットを被った背の高そうな男が、身をかがめて側溝のドブネズミと会話をしていた。
「グランドピアノみてえな蜘蛛には会ったかい?」
「いや」
「会わねえのかい」
「俺はずっと、このドブん中で暮らしてるもんでね。でも、茶色い髪の毛に囲われた青白い顔のねえちゃんなら見たぜ」
「どこでだよ」
「記憶があってりゃ、ドブん中だ」
「そりゃ間違いに違いねえ。そうそう、風車小屋のポスターが言ってたけど、人間、内側と外側のバランスが大事なんだと」
「兄貴は内側ばっかり磨いてるからね」
「うん。それ、自分でも思ったぜ。俺さまも、少し性格をひん曲げてみたら、ダンディになれるかもしれないな」
男はドブネズミを捕まえると、懐から高級そうなタバコ入れを取り出して、その中に放り込んだ。
「これでお前もフトコロのネズミだ。あったかくなるぜ」
***
しばらく歩いていくと、トルコ石のような色をした鳥の卵を並べたテキ屋らしい人物に声をかけられた。
「いらっしゃい、お嬢さん。卵はいかが?」
「なんの卵?」
「偽物の卵だよ」
「偽物? レプリカってこと?」
「レプリカは知らんが、パプリカとは違えよ」
そしてテキ屋は、入れ歯をカタカタさせて得意そうに説明を始めた。
「これは『勇者』、これは『魔王』、そしてこれは『囚われ人』で……、とまあ言った次第でね」
「はあ……」
「そしてこれは……、ああこりゃ本物だ、いかんいかん」
彼はまぎれこんでいた白い卵を大切そうに脇へとよけた。
「本物は売っちゃいけねえことになってんだ、あぶねえあぶねえ」
ここで憂花は、自分が財布を持っていないことに気がついた。
「あ、でも私……」
ぴい。
「……え?」
見ると、白い卵から雛がかえったところだった。
雛はぴいぴい鳴いてトルコ石のような色をした卵をすべて割ってしまった。それからテキ屋に向かって火を吐いた。
「ああっ、お前……!」
テキ屋はたちまち灰になり —— 見ると、憂花の周りはいちめん灰の砂漠で、歓楽街もなにもすっかり消えてなくなっていた。





