逃亡
脈絡のない夢に脈絡を持たせるのは人間だ。
憂花は、起きたときに記憶していた夢の断片を脳内で補完して、次の夜へとつなげていった……。
***
憂花は走っていた。—— ときめき君に、手を引かれて、—— 迷路のように入り組んだ宮殿の中を。
彼女はなぜか知っていた。—— 自分がこの宮殿の後宮に属する侍女だということを。—— ときめき君が、退屈な舞踏会を抜け出してきた王子さまだということを。—— そして、自分を連れてこの宮殿から逃亡して……駆け落ちしようとしていることを……。
「ねえ、なんで、私なんかと……?」
王子はふりかえったが、微笑んだだけだった。
非常ベルが鳴り響き、ふたりの暴挙が後宮内に知れ渡る。
と、廊下に面したいくつかの部屋の扉が開き、薙刀を手にしたしなやかな侍女の集団が姿を現した。彼女らは皆いちようにサングラスをかけていて、個々の表情が読み取れない。容姿もほとんど似通っていて、いちように茶色い髪を下ろしていた。
「坊っちゃんっ」—— 一人が言うと、他の侍女たちが一斉に「坊っちゃんっ」と倣った。
「やばい、逃げるよっ」
言うなり、王子は踵をかえし、憂花の手を引いて逃げた。
「ちょっと、足がっ……」
「辛抱してっ」
ところが、行く先にも薙刀を手にした侍女軍団が姿を現して言った。
「坊っちゃんっ」
「よし、こうなったらっ」
ときめき君はそう言うなり、豪奢な上着のポケットから鶏の卵を取り出して、侍女軍団に向かって投げつけた。卵は先頭の侍女の額にぶつかって割れた。—— とろりとした黄身と白身が彼女の顔を覆う。
「投げるために入れてたわけじゃないんだけど」
そう吐き捨てて、王子はふたたび引きかえす。
がしかし……、
「坊っちゃんっ」
「げっ、さっきのやつら!」
「坊っちゃんっ」
「うう、生卵のほうも追ってきたか」
「王子さま、もう限界」
憂花は脚を押さえて叫んだが、
「諦めるな、プリンセスっ」
王子は窓を開けて……、
「え、ちょ……、ちょっと……!」
憂花を抱えて、窓の外へと飛び立った……。
* 上条香織 *
純喫茶ムーラン。—— 埃を被った薄型時計のデジタル表示は二十一時を指していた。
ベージュのセーターを着込んだ店主の香織は、営業後の店内でひとりコーヒーを飲みながら物思いに耽っていた。
—— 温度……。
自らの額に手をやって思い浮かべるのは、熱を出して弱ったあの菫のような少女 —— 可憐な彼女のねっとりと汗ばんでしまったちいさな額 —— のこと……。
不意に、どこかから、微かな笑い声のようなものが聴こえた。
「え……?」
香織はとっさに壁絵 —— ロートレックの『二日酔い』—— のほうを見るが、
「……違う……?」
そして、引き寄せられるように、玄関脇の飾り棚へと足を向けた。
白木で作られた小洒落た飾り棚には香織の母親の集めた様々な小物が飾ってあり、面倒くさがりの香織でさえも、この棚だけは掃除を欠かさない。—— とはいっても、三日に一度はたきで軽く埃を除く程度だが。
並べられた小物のなかに、トルコ石の遇らわれた真鍮製の万華鏡があった。これも彼女の母親のコレクションだったものだ。香織はそれを手に取る。
—— あの子と、もうひとり……?
中をのぞくと、憂花が同年代の男子生徒と戯れている様子が映った。—— 香織にはすぐ、それが「ときめき君」だとわかった。
猫のような声をあげてじゃれつく憂花、猫じゃらしのように愛らしい指で誘うときめき君 —— その唇はこの世のものとも思われないほどに紅く、香織は思わず身震いをした。
彼がこちらを見た。—— レンズ越しに、彼の瞳が香織を見据える……。