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ときめき君のポートレイト  作者: 檸檬 絵郎
第一部 形成
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「ときめき君」の誕生


「私、演劇部を辞めてきたの!」


 憂花の一言に、香織は目を覚まされた気分になった。この少女に対して初めて抱くある種の好奇心が、彼女の身を乗りださせたのだ。

「女優に憧れて、お芝居を始めたんじゃなかったの?」

「それはもう過去の夢になったの。あの頃は、私にはなんにも見えちゃいなかったのよ」


 憂花が高校生になり、演劇部へ入部届けを提出したのはたった一月ひとつき半前のことだ。

 彼女は入学以前から、自分の女優に対する若い情熱を嬉々(きき)として語っていた。ただし、これは俳優や女優に憧れを抱く者にはよくある話だが、彼女のそれは漠然とした夢のような憧れだった。ジュリエットを演じたいと言いつつ、彼女はシェイクスピアを読んだことがない。なぜ知っているのかと尋ねると、映画で見たのだという。さらにどこの映画館でやっていたのかと聞くと、けろりとしてテレビ放映を見たのだと答えた。


 —— この子はきっと、現実に引き戻される……。


 うら若い少女の素朴な肌を見て、香織は安堵と落胆の混ざったような奇妙な感情を抱いていたものだ。


 彼女は「演劇部を辞めてきた」と言った。香織にとって、それ自体は驚くべきことではない。少し早すぎるかもしれないが、じっさいに部活動を始めて自分の思い描いていた芝居との齟齬そごに早々に気づいたということならば不自然はない。自分の憧れていたものは芝居ではなかった、それで納得がいく。

 問題は、「演劇部を辞めてきた」と言った彼女の嬉々とした口振り、そのようすだった。


「ほんとよ、私にはなんにも見えていなかったの。今じゃ考えられないわ」


 いつにない興奮の色に染まった彼女の目が、たちの悪い夢に冒された状態であるのは明らかだった。





 * 六角憂花 *


 始まりは授業中。

 初夏のさわやかな風が桜の葉をゆらし、教室には真昼の陽光が降りそそいでいた。


 「ところでお前たち、『冬将軍』という言葉を知っているか」

 大音声の世界史教師。彼は健気けなげに呼びかけるが、ほとんどの生徒は無反応で、

「おいお前たち、ここはセントヘレナか」

 健気に自虐でやりすごす。なにも変わらない、いつもの教室。

 入学してまだ一月半だというのに、新入生は物分かりがいい。あの授業はこうだとか、この教師はこうだとか……、しゃべりあう時間、居眠りする時間と、すでに自分たちのサイクルが定まっている生徒が数多い。人より少しぼんやりしたところのある憂花も周囲のクラスメートの影響を受けつつ、みずからの学校生活をカスタマイズしていった。


「ところで、資料集に載っているナポレオン・ボナパルト、あれはダヴィドという画家が描いたものだが、これは偉大なる将軍としてたいそう美化されて描かれている。ネットでナポレオンを描いた絵画を検索すると、こういうかっこいいやつからブッサイクなやつまで、たくさん出てきておもしろいぞ。結局なにが言いたいかというとな、——」

 風が窓をたたき、憂花はふと、教室の窓側のほうへ視線を向けた。

「—— もしお前らのなかに俺の似顔絵を描いてくれるという優秀な生徒がいるのであればだ、そのときは ——」

 陽光につつまれたひとりの男子生徒の横顔に、憂花の瞳は釘づけになった。

 ナポレオンになれない教師のギャグと自虐とは、もはや彼女の耳に届かなかった。



 ***


 これは恋だ。しかも、本物の恋だ。—— 昼食を終えた憂花はそう結論づけた。空になったちいさな弁当箱をハンカチでつつみこみ、い目をぎゅっとしばりながら。


 男子生徒の名前は、留木とめき蓮実はすみ。購買で買ったらしいパンの袋をかたわらにスマホをいじっている彼は、無造作に流した黒のマッシュヘアが印象的な好青年だった。好青年ではあるけれど、決して目立つような存在ではなく、良くも悪くも平凡な雰囲気を醸しだしていた。—— というのが、おそらくクラスメート一般の認識であり、憂花自身も、今まではそのように思っていた。

 しかし、憂花のなかで、たった一日の一瞬の出来事によって、彼女にとってのこの青年の印象は変わってしまった。

 彼には、—— ときめき君 —— というあだ名がついた。もちろん、それは憂花ひとりのための呼称であって、また彼女は特に彼と談笑をするわけでもなかったため、この呼び名は彼女の心臓を駆けめぐる一種の秘密のキーワードのようなものになった。

 そして、彼女の秘密はことばだけにとどまらず、というよりもむしろ、ことばにならない秘密の光景が先にあってこそ、この呼称が出てきたわけだが、憂花はこの青年の顔を見るたびに、あの瞬間 —— 初夏のさわやかな陽光とともに閉じこめられた彼の横顔 —— を想起するのだった。




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