最初の夢
* 六角憂花 *
十一月。
冷たい雨の降る日だった。純喫茶・ムーランへ着くなり、憂花はカウンターテーブルに顔を突っ伏して、意識を失った。——
***
教室。
憂花はいつものように、窓際のときめき君を眺めていた。灰色の背景に、黒々とした桜の枝 —— そのなかにあっても、憂花にとってのときめき君はそのかがやきを失わない。
以前ほど長いあいだ実物を見つめていることはなくなったが、それでもやはり、目の前の青年留木蓮実の横顔は、憂花のなかのときめき君の偶像を確固たるものに保つのに重要な役割を果たしていた。
ふっと、風が舞いこんだ。—— もう十一月、窓を開けるような季節ではない。
「えっ……」
本物だと思いこんでいたときめき君の横顔は、憂花の前で風にあおられて、紙のようにたゆんだ —— ように見えた。
瞬きをしてふたたび見ようとすると、その影は色褪せて、閑散とした空と桜の背景と同化していくようにさえ思われる。
「まさか、そんな……」
……かと思えば、とつぜん色鮮やかに映りだし、しかしそれは、平面的な輪郭線をともなって憂花の目をくらませた。
—— いけない……、このままじゃ……。
憂花はとっさに手を伸ばした。
—— ときめき君に……、触れなくちゃ……。
カツン、—— 憂花の指がなにかに当たった。視界がクリアになると、どうやらそれが窓ガラスらしいとわかる。
「発車します!」
ふいに、聞き覚えのある大音声が右耳に響く。
「黄色い線の内側へ、お下がりください!」
「先生……?」
憂花は黒板のほうへ目を向けるが、—— そこに黒板はなかった。—— 先の見えない、長いプラットフォームがつづいていた。
—— 駅……?
警笛が鳴り、ときめき君の乗った電車が動きだす。
「待って!」
憂花は思わず追いかけた。プラットフォームの先へと走った。窓の向こうのときめき君は、まるで石像のように固まってこちらを見ようとしない。
「お願い、待って……、待ってっ……!」
徐々にスピードを増す電車 —— 憂花より先行したガラス窓は灰色になっていき、なかのようすもうかがえない。
—— そんな……。
憂花は、いつの間にかびしょ濡れになって立ちすくんでいた。雨のなか、消えた残像へすがるように伸ばされた自身の赤い右の手のみが、鮮明に見えていた……。
***
—— こ、ここは……?
気がつくと、憂花はベッドのうえにいた。四畳半ほどの洋室だった。
ドアの開く音、—— その入ってきた影を見て、憂花は安堵の声を漏らした。
「香織さんっ……」
「あら、起きたの」
「うん……。えっと、私……」
「覚えてない? 店で倒れて」
「えっ……」
「それで、熱があったから」
香織の柔らかな掌が、憂花の熱った額に触れる。「まだ、あるわね」
「……香織さんが……?」
「スマホを拝借してお母さんに連絡してみたけど、通じなくて」
「たぶん、仕事で……」
「そうだろうなと思った」
香織の優しい微笑みに、憂花の心は救われた。
この後、憂花は連絡のついた母親と病院へ行って診察を受けた。—— インフルエンザ、とのことだった。