別世界から
* 上条奏 *
東京は丸の内、整然と建ちならぶオフィスビルのひとつ。十一階。
「『ちょっと書きとめとくんです。……題材が浮んだものでね。……(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。』」
「なに読んでるんだ」
「うわ、びっくりした」
「びっくりしたか」
「びっくり……、しますよ、なんですか急に」
「お前が集中しすぎなんだよ、まだ仕事してんのかと思った」
「いや……、違うでしょう、どう見ても」
「お前はまじめだからな」
「……母親が好きだったんです、これ」
「母ちゃんがねえ、どれ」
「これです、チェーホフの『かもめ』」
「ああ、いきなりかもめが襲ってくるっつう、パニック映画か」
「ぜんぜん違いますよ。アントン・チェーホフの戯曲、『かもめ』です」
「……なんかまた、難しそうなのを読んでるなあ」
「さっぱりわからないです。……母さんも、妹も……、俺なんかとはまったく別の世界にいるみたいで」
「お前以上の変わり者ってわけか」
「俺以上?」
「……中途半端ってのが、いちばん辛いよな。じゃ、先帰るぞ」
「あ、ちょっと……」
「ちょっと書きとめとくんです。……題材が浮んだものでね。……(手帳をしまいながら)ほんの短編ですがね、湖のほとりに、ちょうどあなたみたいな若い娘が、子供の時から住んでいる。鴎のように湖が好きで、鴎のように幸福で自由だ。ところが、ふとやって来た男が、その娘を見て、退屈まぎれに、娘を破滅させてしまう――ほら、この鴎のようにね。」
アントン・チェーホフ『かもめ』・神西清訳・第二幕より引用 青空文庫にて閲覧
https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51860.html(図書カード:No.51860)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51860_41507.html(本文:XHTML版)
なお、「鴎」のルビ(かもめ)は引用者による。