変わりゆく(第一部、完)
* 六角憂花 *
他人より少しぼんやりしたところのある憂花だが、その性質は彼女の鋭敏な感性の邪魔をするものにはならなかった。
観劇の後、憂花は香織の精神がどこか遠くの世界へ行っていることに気づいた。上野の美術館へ行って以来、憂花は心密かに香織のそう思わせる表情を —— 素顔 —— と評していた。
意識的か無意識かにかかわらず、人はだれでもキャラクターを有している。キャラクターというのは仮面のようなもので、本質的な性格のうえにかぶせるものだ。その人の容姿や持っている個性によって合う合わないはあるが、それはその人本来の姿 —— 素顔 —— とはまた違った、人に見せるためのポーズをともなったアピールなのだ。化粧と呼んでもいい。
憂花から見て、香織のそれは意識的に思えた。彼女のほうが歳上だからということもあるのだろうが、憂花に対する香織の態度には、たしかにどこか気取った印象がただよっていた。その印象がふっと変わるとき —— 彼女がどこか遠くを見つめ、虚ろな表情を見せるとき —— かすかな怯えのようなものさえ感じさせる唇の震えを見せるとき、—— それを香織の素顔だと憂花は思うのだった。
観劇の後、恋物語の夢から憂花を覚させたのは香織の素顔だった。性質的には、これまで見てきたものと同じ彼女の魅惑的な素顔であったが、遠くを見つめる香織の表情に、—— 今回はどこか違っている、—— そう思わせるなにかがあった。
憂花の鋭敏な感性はその原因をすぐに突き止めた。原因は、香織自身が意図せずに素顔をさらしていることにあった。
美術館で見せた彼女の素顔、—— それも普段の彼女のキャラクターとは違う飾らない素顔であることに変わりはないが、あのときの彼女は、外から自分の素顔を見られている状況を認識していた。それでいて、浸っていた。……いや、みずから進んで、あえて素顔をさらしていたのかもしれない。彼女にとって、素顔をさらすという行為はひとつのポーズであって、それを通じて —— 気取らない自分 —— キャラクターを崩した自分 —— を意図的に見せていたのかもしれなかった。
ところが、今回は違った。香織は憂花に見られていることに気づいていない。—— 憂花はこの新たな発見をよろこんだ。憂花は香織という存在に憧れると同時に、その独特の雰囲気と距離感にある種の緊張を感じてもいたが、そんな彼女の隙を見たのだというちょっとした優越感は、憂花の心を大いに楽しませた。
***
夜。
憂花の部屋のときめき君は、まだ額縁のなかの存在だった。—— 彼は横顔を向けたまま、背景に溶けこんで静止している。
しかし、香織の場合と同様、このときめき君に関しても、憂花が無意識的に信じていた彼との関係性の幻想 —— 外側から眺めるべきなにか —— が崩れかけているのも事実だった。
「ああ……」
憂花は、肖像画に向かってため息を漏らしていた。
—— いっそ額縁を抜けでて、こっちへ来てくれればいいのに……。いいえ、やっぱり動かないで。そのまま、美しいお顔を……、でも……、あなたがもし、私を知って、恋をして、私のために……狂ってくれたなら……、いえ、そんなこと……、ああもうっ!
この日、ベッドのうえでいつもより長く肖像画を眺めていた憂花だったが、ついに布団をかぶった。
—— 私のほうが狂ってしまって、あなたを壊してしまいそうだから……、今日はもう、おやすみ……。
(第一部、完)