劇世界
ふと思い立ち、香織は過去の観劇体験を追想していた。
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母親が亡くなって二年、香織は母の好きだった劇場へ足を運んでいた。その日はカミュの『誤解』を演っていた。—— 母と妹を捨て旅だった男が、家族としての義務を果たすために、財産を持って二十年ぶりに故郷へ帰る。彼は自分の名を告げず旅人とした振るまい、母と妹は身内と知らずに彼を殺してしまう。その財産のために。—— 殺人のあと、彼の正体を知った母親は娘を捨てて自殺をし、愛をうしなった娘は、訪ねきた義姉という女に彼女の夫の殺害を告げて、ひとり死へ向かう。残された女は神に救いを求めるが拒絶され、幕。—— ざっと、こういった筋の悲劇だ。
作者のアルベール・カミュは、不条理を直視することを求めた。絶望ではなく、反抗を求めた。—— 家族を捨てた男は義務の心から故郷へ帰ったが、母と妹へ兄としての信実の態度を見せることができずに死んだ。息子を殺した絶望から、母は死んだ。孤独のうちにその娘も死に、残された者を神は助けない、—— 人間に与えられた不条理な現実を直視し、反抗する。それは、投げやりになることでも、神に祈ることでもなく、沈黙やごまかしをやめて信実の態度を示しつづけることによってなされる……。
しかし、香織の心を震撼させたのは、この悲劇の内容でも、作者の意図した思想でもなかった。それは、不条理な悲劇を目の当たりにした観客の反応だった。
香織の隣の席には、白い髭をたくわえた老人が座っていた。彼は劇の始まる前、ゆったりとした口調で香織に話しかけていた。
「めずらしいね、お嬢ちゃんみたいな若いお客は」
「母が、芝居好きだったもので」
老人は柔和な笑みを浮かべると、
「うらやましいね。若いうちにうんと見ておくといいよ。芝居なんていういいものが、黄泉への土産じゃもったいない」
そして芝居が始まり、カミュの悲劇が演じられたのだが……。
ラストシーン、殺された男の妻が神に祈る ——。
「お願い、助けてください」
神らしき男が拒絶する ——。
「お断りします」
—— そして、幕が下りる。
幕が下りる前に、香織は隣の席から笑い声を聞いた。非常に穏やかな、笑い声だった。
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「恋によって浮かびあがる、愛すべき人間の奥深さ、おかしみを描きだしました」
『ロミオとジュリエット』を演出した女子生徒のことばは、喜劇に向けられたことばであればふさわしい。喜劇を見ることは、どうしようもなく愚かな人間たちと彼らの不幸とを、ある種の愛と諦観とをもって眺めることだからだ。観客の笑いは人間愛からくるものであって、いたずら心 —— あるいは、優しい悪意 —— と呼んでいいかもしれない。
女子生徒の演出は喜劇的ではなく、不条理を見つめる悲劇のように感じられた。にもかかわらず、彼女は先のことばを発した。そこにあるのは喜劇が有する人間愛ではなく、また、不条理劇に含まれる運命への反抗の精神でもない。—— 彼女の愛と関心は悲劇に生きる人間へではなく、翻弄される劇人物と思いのままに練りあげた劇世界の内側へ向かっているようにも思われた。