観劇の作用
「古い恋は死んでしまって、新しい情熱がロミオの心に生まれ出ました。先日ロミオはこう言った、—— ロザラインのためならば、私は死んでもかまわない! —— ところが、彼の眼中にもはやその人の影はなく、慕うはジュリエットただひとり……。惹かれあった恋人同士は、しかし仇同士でもありました。おおロミオ、おおジュリエット……、かぎりない危うさのうちにこそ、ふたりにとってかぎりないうれしさが……。ということで、我が校演劇部による『ロミオとジュリエット』もいよいよ第二幕に移ります。足らない点もおありでしょうが、どうぞ最後まで、ごゆっくりとお楽しみください」
***
十月。
憂花を文化祭公演へ誘ったのは、演劇部の生徒ではなかった。それどころか、高校の生徒ですらない。—— 高校を卒業してすでに十年以上が経過している、上条香織だった。
「ねえ、これ知ってる?」
「香織さん、知ってるもなにも」
香織が差し出してきたのは、憂花の通う高校の文化祭のチラシ。学校行事の宣伝用にしては丁寧に作られた、B5サイズ見開き二ページのパンフレットだった。
香織は、中を開いて指差した。
「あなたの辞めた演劇部、予定通りやるみたいね」
「そりゃ、やるでしょう」
「『ロミオとジュリエット』」
憂花が演劇部を辞める前、いちどジュリエット役にキャスティングされていたことを香織は知っている。
「ヒロインにぴったりの大女優をうしなって、よく演目を変えなかったこと」
香織はからかうように言った。そしてとうぜんのように……。
「はじめてね、あなたとの観劇って」
* 上条香織 *
憂花ははじめ、乗り気ではなかった。ほんとうの恋を知った以上、芝居という虚構を見て楽しむ必要性を感じなかったからだ。
「かわいそうに、ふられちゃったわけね」
憂花はときめき君の肖像画が完成してからというもの、家にいて暇さえあれば「彼」の前へ座り、長いあいだ眺めているのだと言った。
「他の絵は?」
「興味なし」
「一途だこと、かわいそうに。……でも、変ね」
香織は眉をひそめ、あごの下に指を置いて言ってみせた。
「そんなに好きなら、私の店になんか来ないで、すぐに『彼』のもとへ帰ればいいのに」
「それは……」
憂花はことばに詰まった。からかうように笑う香織を見て、顔を赤らめる。
香織は説得に入った。
「ねえ、『彼』をもっと味わうには、さ……」
できるだけ柔らかく —— しかし確実に —— 憂花の心へと自分のことばを浸透させていく。
「そのための観劇だと思えば、行ってみる価値はあるんじゃない……?」
***
第二幕 —— 有名なバルコニーのシーンをふくむ一連の場 —— が終わった。
憂花の観劇のようすを見て、香織は満足げに微笑んでいた。—— 役者によって演じられる古典悲劇が、うら若い少女のうちに、より劇的な作用を生みだす種子を植えつけていくさまを見て……。
冒頭の「古い恋は[……]お楽しみください」の部分は、『ロミオとジュリエット』第二幕の冒頭で序詞役によって語られる内容をアレンジしたものです。
ちなみに、ロザラインという女性は劇中には名前のみしか登場しません。彼女は、ジュリエットと出会う以前にロミオが一方的に想いを寄せていた相手ですが、ロミオがジュリエットに心を奪われたことを強調するためにあえて用意された要素なのでしょう。