いたずら
* 六角憂花 *
「今日は早いわね」
「だって、今日完成させるんだって思ったら、いても立ってもいられなくって」
憂花がこの日を肖像画の完成予定日に選んだのには理由があった。彼女がこのキャンバスに向かって絵の具を載せはじめたのは、高校の夏休みが始まってからだった。その間、本物のときめき君を見ていない。これまで多くの習作を描いてきた憂花は、なんとしても理想の肖像画を描くのだという情熱を持っていた。そのために、念には念を入れて、できあがったものを見て失望しないように、完成の前にもういちど本物と照らし合わせる必要があると思ったのだ。
「で、直すべきところは見つかった?」
「ううん、ぜんぜん。最初はなんか違うかなって思ったんだけど」
憂花はテーブル席の椅子へ立てかけてあるキャンバスの掛け布に手をかけ、
「ふしぎなものね、まるで彼のほうからこっちのイメージに近づいてきてくれたみたいに、すぐにしっくりきたのよ。だからもう、ニスを塗って完成ね」
言い終えるやいなや、布を取り払った。
「……」
「どうしたの?」
「なに、これ……」
窓際の席、葉桜を通した初夏の陽光が差す男子生徒の横顔。印象派風の筆致で描かれたその光景はまさに憂花のときめき君のイメージそのもので、描いた彼女自身うっとりとしてしまうような出来だった。
しかし……。
「これは、なに」
憂花が指し示したのは、彼の机のうえだった。
「よく気づいたわね」
へらへらと香織が笑う。憂花は驚いた。
「香織さんが描いたの?」
「ちょっとしたいたずらよ」
「信じられない!」
爽やかな横顔のもとに描かれていたのは、怪しく光る灰皿と、ちいさな煙草の吸い殻だった。
「あれ、あなた嫌煙家だっけ?」
「そうじゃなくて!」
ときめき君は憂花と同じ高校生だ。未成年の喫煙は法律で禁じられている。
「なんでよ、信じられないっ……」
呆然とする憂花を見て、香織は笑った。
そして、
「ごめんごめん」
言いながらウエットティッシュを取りだして、描かれた灰皿を拭きとった。
「ほらね、元通り。ここだけ先にニスをかけてあなたの絵をちゃんと保護してから、うえからちょっといたずらしたってだけよ」
「……」
香織は優雅に微笑んだ。
そして、なにがなにやらわからず放心している憂花の肩に優しく腕をまわした。
「ごめんって。あなたがあまりにも彼に夢中だったから、ちょっと意地悪したくなっただけ」
そう言って、香織は憂花を柔らかく包みこむように抱く。
「信じてたから、—— あなたは簡単に人を嫌いになったりはしない —— って。それどころか、いちど好意を持った相手なら、その人がなにをしようと、あなたの目にはそれが美しくうつる。だから……」
香織の紅い唇が、そっと、憂花の耳元でささやいた。
「あなたは嫌いになったりしない。ときめき君のことも、私のことも……」