完成間近
九月。
桜の葉は秋の色に変わりつつあったが、日射しと気温はまだまだ夏。そんな教室に、例の世界史教師の大音声が響く。
「俺の新学期はじめてのクラスがお前らのところでうれしいぞ」
なにも変わらぬ、いつもの反応。
「新しい時間割に感謝だな。ようし、お前らは静かに聴いてくれるから、このクラスだけ特別に初回版スペシャル授業をしてやろう。他のクラスには内緒だぞ」
そう言ってまた、いつも通りの美術談義を始める。
憂花は久しぶりに見る本物のときめき君 —— 留木蓮実 —— に夢中だった。中学までと違い、席替えがないため、留木蓮実は変わらず窓際の席だ。厳密に言えば、前日の始業式ですでに彼の姿を見てはいたが、その日は授業がないため長いこと教室の彼を眺めることはできなかった。
窓際の席のときめき君。—— しかし、憂花にはどこか引っかかるところがあった。なにか、完成間近のときめき君の肖像画とじっさいの留木蓮実の姿とのあいだに溝があるような気がするのだ。
—— 葉の色が、変わったからかしら……。
ときめき君が窓を開ける。風とともに心地のよい蝉の声が舞い込み、生徒たちはまるで勇者を讃えるかのような視線を彼に送る。
—— やっぱり、ときめき君だわ……。
* 上条香織 *
完成間近の肖像画は、純喫茶・ムーランのテーブル席の椅子をイーゼル代わりにして立てかけてある。F8号キャンバス —— 四五五×三八◯ミリメートル —— を縦長に使ったもので、憂花が訪れるまで、埃除けの布がかけてあった。
香織は店を開けると、憂花の使っていた習作用のスケッチブックをめくり始めた。憂花のなかではもともと構図や色彩は決まっていたが、そうはいっても本格的に描くのははじめてだったため、苦労をしていた。
電話が鳴る。
「起きてるよ」
この時間にかけてくるのは兄と決まっていた。
「なんだ、早いな」
薄型時計のデジタル表示は十五時五十分を示している。
「店も開けてるよ、ちゃんと」
「そうか。今日は……、なにかあるのか?」
「別に」
そう言う香織の視線の先には、わずかにめくれた埃除けがある。
「ルノワールは掛かってるだろうな」
「掛かってる、掛かってる」
「それならいいや。あんなとこに穴が空いていたら、商売にならないからな」
「どうせ商売になってないけどね」
「それでも、だ。……母さんにとっては……」
「はいはい、母さんの穴ね。男の下ネタはロマンティシズム、でしょ」
「それはお前が言ってるだけだ。というか下ネタじゃないし」
少しのあいだ、沈黙が流れた。
「なに?」
「いや……」
「なにもないなら、切るわよ」
「ああ、そうしてくれ」
兄はいちど、そう言ったが、
「お前……、声が艶々してないか」
「え……?」
「碌なことが起こらない気がする」
「……たとえば?」
そこで入口のドアが開き、パイプチャイムの三重奏が響く。
香織は手元のスケッチブックを閉じて、
「じゃあ、切るわね」
一方的に電話を切った。