外側から眺めるべきなにか
* 六角憂花 *
憂花にとって、香織はふしぎな存在だった。一言でいえば —— 憧れ —— だが、それは自分がこうなりたいという見本のような対象ではなかった。
美術館で目にした香織の眼差し —— 時折、どこか遠い世界に飛び立っているかのような虚ろな表情をする —— そして、なめらかな口調で話しながら、なにか深刻さのにじんでいるような表情も —— 謎に満ちた震える唇と、かすかな怯え、—— 憂花には想像もつかないなにかがこのふしぎな女性のうちに存在していて、その表層に現れたそれらの曖昧な影こそが彼女の美貌であり、謎めいたしぐさであった。
上野へ行った日、憂花ははじめて一日中この憧れの女性とすごすことになった。それまでは、夕方のほんの数時間、学校帰りに純喫茶へ寄って顔を合わせる程度というのが常だった。ときめき君の肖像画を描くことになってからは、その「数時間」も増えはした。そして、一緒に都内の美術館へ行くようにもなった。けれど、あの日以上に長い時間をともにすごしたことは、まだなかったのだ。
彼女がそのことに気がついたのは、ルノワール展を見た後だった。
「そういえば、今日はずっと香織さんと一緒ね」
ふだんならここでお別れだった。軽く食事を摂ってともに電車へ乗り、駅で別れて帰宅した。
香織はいちど瞬きをして、
「うれしい?」
「そりゃもちろん。でもなんだか……」
「え?」
「……なんだか、香織さんと一日中一緒にいられるなんてふしぎ」
一瞬おかしな空気が流れた気がした。その後、どちらからともなく、笑った。
それからともに次の美術展へ入って、憂花も香織も展示された作品群を楽しんでいたのだが、憂花は時折、香織のようすを気にしていた。香織の視線は絵画に注がれていることもあれば、目が合うこともしばしばあった。
そして終盤、憂花が惚れた絵画の前で立ち尽くしているときに、香織のほうからふいに話しかけてきたのだ。
「シムズって画家は、歴史を語る女神の絵も描いているんだけど……、画家の子どもが第一次世界大戦で亡くなって、後から女神の巻物に血の色が足されたそうな……」
「そんな怖い話、しないでよ」
「服を持って逃げる絵は、その後に描かれた。そして、シムズの最期は……、自殺だった……」
寄れば寄るほど、憂花のなかに浮かぶ香織の像が曖昧になっていく。
しかし、それは憂花にとって決してこの女性の魅力を消し去る要素にはならなかった。むしろその曖昧な輪郭が、中身が……、恐ろしいほど彼女の心を惹きつけた。彼女の感性を惹きつけた。
憂花にとっての —— 憧れ、—— それは、理屈では説明のおよばない魅力であり、感覚をもってしてさえ明確につかむことのできない —— つかもうとすればたちまち壊れてしまうような気がする —— 外側から眺めるべきなにか —— なのかもしれなかった。