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ヘンリエッタ夫人の背後で控えていた青年騎士のノア君が、思わず一歩踏み出します。
そのノア君を片手を上げて制した夫人が、デュラント伯爵を真っ直ぐ見返して返事をします。
「オリヴァー、陛下のことが気に入っている訳ではないけれど、もう誰も覚えていないような昔話を蒸し返すためにこんなことをやっているのではないわ。
辺境伯に嫁いで、孤独だった日々から救ってくれた恩義のある方に頼まれて、様子を見にきただけなの。」
デュラント伯爵は鋭くツッコミます。
「それは誰です?」
ヘンリエッタ夫人は
「言うつもりはないわ。」
と、短く答えます。
私はといえば、その昔話に興味があるのですが。
デュラント伯爵は深いため息をつきます。
「姉上、それでは到底貴方の言い分を信じられません。
私はあの日をはっきり覚えているんです。救うこともできず、止めることもできず、辺境伯の領地に旅立つ貴方を見送ることしかできなかったあの日を。
旅立つ日の貴方の目に宿った怒りをはっきり覚えていますよ。泣くことしかできなかった母に『私のために無駄な涙を流さないで。』といい、結婚を推し進めた父に、『貴方の娘は死にました、二度とお目にかかることはないでしょう』と言い放ちましたよね。」
うわ。過激。
「でも、私には、『帰ってくる。この国を変えるために実力をつけて戻ってくるわ。その時まで元気でね。』とおっしゃった。
だから私は、貴方がこの国を根底から覆すつもりで帰って来たのだと思っています。そうなのでしょう?」
ヘンリエッタ夫人は、笑顔を深めます。
「あらあら、若かったのねぇ。そうね、当時の私は今のリリアさんぐらいでしたものね・・・
あの頃の私は世界を変えられると信じていたの。この国を背負っているつもりだったわ。王妃を助け、自らを犠牲にすることで、タッパン国の女性の地位が向上するのだ、とね。気負っていたの。
だから、そのイデオロギーが挫折した時には、随分心ないことも言ってしまったのよね。」
ああ、そうか。ヘンリエッタ夫人は、フィリップ殿下の言っていた、陛下の側室候補だった女性なのね。ジリアン妃に破れてどっかの老人と結婚させられたという。
繋がったわ。納得。だとしたら、デュラント伯爵が、夫人の王家に対する恨みを心配するのも不思議ではありませんね。
夫人は、一層妖艶な笑みを深めます。
「でもねえ、ファーミングヴィルと結婚したことによって、私も色々学んだの。あの青臭い理想主義の女の子はもういなくってよ。」
そう言って、面白そうにデュラント伯爵を見つめ返します。
デュラント伯爵は、
「では今の貴方は青年貴族をたぶらかすことを覚えた成熟した女性とでもいうのですか?!」
と、言い募りました。
あ、これやばいやつ?ルディ君に聞かせられないやばい話?
私が慌ててルディ君の耳を塞ごうとし、ルディ君がイヤイヤをしている隙に、リリアちゃんが発言し始めました。
「ヘンリエッタ様、では、貴方もこの国の女性の地位向上のため戦っていらっしゃったのですよね。
私たちも今、そのために頑張っているんです。目的は同じはずです。私たちに、いえ、エドワルド王太子に協力していただくわけにはいきませんか。
エドワルド殿下とフィリップ殿下は、王妃の遺志を受け継ぎ、女性の地位向上のために奔走していらっしゃるのです。」
リリアちゃんを見つめるヘンリエッタ夫人の目は、なぜだか何かを懐かしんでいるように見えます。
「あの志の高い王妃でさえ失敗したのよ。貴方たちが頑張っているのは解るわ。でもね、それがどんなに困難なことか、私は身を以て体験したの。
王妃は最後まで私に手紙を書き送ってくれていたのよ。『いつの日か貴方を解放する日が来ると信じています』とね。
その王妃でさえ旧体制と戦い、破れて、失意のうちに亡くなったわ。」
リリアちゃんは諦めません。
「エドワルド殿下には、私たちがいます。なによりも 母がいます。王妃のような独りっきりの戦いではないわ。」
ヘンリエッタ夫人は、困ったようにリリアちゃんに返答します。
「私の中でエドワルド殿下の評価があまり高くないのよ。彼に海千山千の貴族を押さえ込んでこの国の改革を進めることができるとは思えないの。いささか凡庸であることは否めないわ。」
ようやく私の出番です。
「凡庸であることは問題にはなりませんわ。改革の意思があることが重要なのです。それさえあれば、あとは私たちが実際の改新計画を進めますわ。
むしろ絶対君主など、邪魔なだけでしょう。それは、陛下をご覧になって、ヘンリエッタ様もお判りでしょう?」
夫人は少し考えています。
「計画がおありなのですね。」
私もにっこり微笑んでお返事します。
「ええ。ございますのよ。
ヘンリエッタ様が全てをお明しになれないというのであれば、私共の全面的な信頼を差し上げることはできません。計画の詳細は申し上げないようにいたしましょう。
私たちの計画は、今度の追徴課税の発表の際に行うとだけ申し上げておきます。ですから貴方にはそれまで、サロンに集まる貴族たちが行動を起こさぬように操作していただきたい、と、お願いしたいのです。」
夫人も興味を新たにしたようです。
「その時に陛下の首をすげ替えると?」
さてと、大ハッタリをかましましょうか。
「いえ、その時に、陛下の首を流血沙汰なくすげ替えて、貴族たちをエドワード王太子の味方につけ、マーガレット王女との婚姻を成功させるのです。」
夫人の目はしばらく大きく見開かれていましたが、すぐに驚きから立ち直ったようです。
「わかりましたわ。亡き王妃の名に誓って、その日まであの子達を抑えましょう!」