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「これを10冊?」
白紙の帳簿を秘密裏に作る理由がわからず困惑していると、クリスティーナさんが、さらなる謎を提供してくれました。
「ええ、おまけに、帳簿の大きさと見かけに非常にこだわっていらっしゃいまして、何度もサンプルをお見せして、やり直したそうです。最初はサンプルをお宅にお持ちしたのですが、侯爵様が危ないから、といって、兄の元に何度か忍んでいらっしゃったそうです。」
旦那様はいったい何をしようとしていたのでしょう?
「何度か修正を重ねてようやく出来上がった時には、侯爵様がお亡くなりになっていて・・・兄は、侯爵様に非常に恩義を感じておりまして、是非ともお役に立ちたいと。出来上がった帳簿をなんとしても侯爵様にお届けしないと、死んでも死に切れないと申しておりました。それで先日あのようなことをしてしまいました。奥様、本当に申し訳ございませんでした。」
私はまだ自分の思考にとらわれていたので、クリスティーナさんに向かって、なんでもないない、と、手をひらひら振りました。
「帳簿はまだ、兄がお預かりしております。いつでもお渡しする準備はできておりますが、どうすればよろしいでしょうか。」
ちょっと考える時間が必要です。
「引き続き預かっていただくことは可能でしょうか。必要になったら、なんらかの方法で取りに行きます。」
クリスティーナさんは、帳簿を自分の袋にしまいこみました。
こめかみに手を当てて考えこんでいると、ノックの音がして、家政婦長のミルドレッドさんが入ってきました。お茶を運んでいますが、お願いした覚えはないので、これは様子を見に来たと考えて間違いないでしょう。どうやら使用人さんたちの間では、愛人騒動が噂になっているようですね。
ミルドレッドさんを下がらせると、 クリスティーナさんに指示を出します。
「何が起きているのか解りませんが、主人が危険を感じていたことは確かです。マーティンさんには引き続き身辺を注意するようにお伝えください。
あ、でも、貴方がお兄さんと頻繁に会うことも危ないのかもしれません。お兄さんに会うのはしばらく控えたほうがよいのでは。」
二人のことを心配すると、クリスティーナさんは、神妙に頷きました。
「はい。兄もそう申しておりました。幸い私は他のお針子さんたちと下宿していて、兄とは一緒に住んでいないのです。」
「では、貴方に聞きたいことがあれば、マダムのところに伺えばよいのね?」
「はい、今日はマダムにお休みをいただいて来たんです。マダムは奥様に助けていただいたことをすごく感謝してますから、私が侯爵様の愛人だなんてことを聞いたら、どんなことになるか・・・首です。絶対クビです。」
「大丈夫、愛人はワンダで、クリスティーナじゃないから。でも貴方もくれぐれも気をつけて。誰にも、何も言わないことが一番よ。」
「もちろんです!」
「じゃあ、もう一芝居頑張って!」
クリスティーナさん、もとい、ワンダさんは、書斎のドアを激しく閉めると、執事さんを待たずに、どすどすと足音を立てながら、家から出て行きました。
私といえば、その後、放心したように書斎をウロウロ歩き回り、帳簿の謎解きを試みました。二重帳簿?いや、侯爵家の領土の帳簿を書き換えるのに、10冊も必要だとは、到底思えません。第一、クリスティーナさんの持っていた帳簿は書斎にある帳簿と形態が違います。
家族や使用人さんたちが心配するぐらい考え込んでしまいましたが、まあ、愛人に乗り込まれた奥方としては、普通の反応ではないかと思います。