信頼と舞い降りた希望
それは、巨獣と呼ばれるモノより尚大きく、そして、更なる危険な異様を以ってそこに存在していた。
雲にも届くのではないかと思わせる巨躯、鋭く天を刺す二本の曲角を頂く獣相、そこに収められた目は人間に倍し、その口に在る牙の群れは岩をも噛み砕かんばかりに鋭く凶暴だった。
そして、何よりも威圧を感じさせるのは、彼のモノが六臂に備えた巨大な武具の異相だった。
その形は、冒険者である自分にとって見慣れた物である。
しかし、その大きさは、俺の常識を遥かに超えていた。
六本の腕の一つに収まる得物は『剣』、それは、今、自分の手に在るモノと同じである。
しかし、その大きさには、『一』と『十』の大きな隔たりがあった。
正に、それは、『兇器』であった。
それと同等の大きさを持つ他の武具の全てが、その存在の手に、まるで玩具のように軽々と収まっていた。
俺にとっては『巨大』な得物が、相手にとっては玩具の如き『小物』である事実、それは、俺の心を恐怖で凍えさせるのに十分だった。
その存在に、威圧されているのは、俺以外の存在も同じだった。
唯一人を除いて。
「でかいな、アレ」
新たなる存在に戦意を殺がれ不動の状態にある巨獣を無視して、彼は、嬉々として呟いた。
そこに、先刻見せた表情の険しさは皆無だった。
俺は、味方である筈の存在に、畏れを抱かずにはいられなかった。
「なあ、セティ、一つ面倒な頼みをしても良いか?」
「?」
颯爽と退き、何時の間にか俺の傍らに在った彼の問いかけに、俺は無言の視線でその言葉の意味を問う。
「俺がヤツを倒すまで、あの巨獣の相手をしてくれないか?」
『勿論、倒しても構わないがな』と付け加えられた彼の言葉に、俺は、二重に驚かされる。
「俺に、あの巨獣を倒せると?」
彼が口にした言葉の意味を理解した俺は、自分でも半信半疑な思いでそう問い返していた。
「今この状況で、お前以外の誰に、あの巨獣を倒せる可能性がある」
『可能性』、その言葉を口にした一瞬、彼の視線が俺の腰に在る剣に向けられる。
「否、正確に言うと、『お前達以外』、だな」
重ねられた言葉の視線の先には、俺のパートナーであるスィーナの姿が在った。
「分かりました、遣ります」
俺は、覚悟を決めると、対峙する相手を妖獣達から、《死を狩る凶獣》へと代えて獲物である剣を構え直した。
その俺の姿を一瞥して、彼は、一瞬の困惑を浮かべるが、直ぐに意識を切り替えて、自らの敵へと備える。
「では、任せたぞ、セティ!」
告げると同時に彼は、巨獣の脇を電光石火の突進で駆け抜けた。
「お前の相手は、俺だ!」
無防備となる彼の背中を狙う巨獣に先んじて、俺は、牽制の為に斬り掛かる、
『ふんっ、我を侮るとは小賢しい、望み通り貴様から殺してくれるわ!』
恫喝の言葉と共に、巨獣は、振り下ろす爪拳で俺の攻撃を迎え撃つ。
俺は、気合いの息を吐いて繰り出す斬撃に更なる力を込めて振り放った。
ぶつかり合う刃と爪の間に、閃光の火花が散り、甲高い音と共に両者は弾けて別れる。
「重い……っ!」
俺は、衝撃に痺れる腕の痛みに呻きを漏らす。
そして、この痛烈な攻撃を軽々といなしていた彼の力量に舌を巻いた。
『どうした小僧、もう我の力に怖じたか!』
苦悶に歪む俺の表情を見てとり、巨獣は、愉悦に近い笑みを浮かべた。
「否、唯少し驚かされただけだ」
・・・お前にではなく、お前と戦っていた彼の力にな。
『そうか、ならば、更なる驚苦に打ち震えるが良い!』
嘯く俺の言葉を嘲り、巨獣は、次なる攻撃を繰り出す。
俺は、無言でそれを見てとると、素早く後ろに退いた。
それは、敵の攻撃を回避すると同時に、相手を彼から引き離す為の後退だった。
思惑どおりに誘われる敵の動きに満足しながらも、俺は、相手の敏捷さに油断が禁物であることを思い知らされる。
明らかに間合いを詰める敵の動きの方が、それを引き離そうとする自分の動きより素早かった。
下手に退き続ければ、背後にいるスィーナ達を巨獣の攻撃範囲に巻き込む恐れがあると判断した俺は、今一度、得物である剣で敵が繰り出す攻撃を受け止めると、自分が立つ位置を絶対の防衛線に定める。
「ここが踏ん張り処か」
そう自らに言い聞かせ、俺は、文字通り敵の攻撃を受け止めている自らの足を強く踏ん張り、刃に乗る巨獣の爪拳を鋭い気合いと共に押し返した。
『ふんっ、ちょろちょろと逃げたと思えば、小癪な! これ以上、逃がしはしないぞ!』
巨獣は、俺の示す抵抗を煩わしげに一括し、その双眸に強い殺意を宿す。
それは、目の前に在る自分という獲物に、相手が本気になった証であった。
「そうこなくちゃ面白くない。来い、相手をしてやろう!」
もう既に覚悟が出来ている俺にとって、目の前の敵は怖れる必要のある脅威ではなかった。
唯、怖れる事があるとすれば、それは、背後にある存在の安全のみだった。
幸いにも、それに仇なそうとする妖獣達の戦意は弱まり、戦いの趨勢は決しようとしていた。
その俺の判断は正しかった筈であった。
それが、普通の状況で在ったならば。
『 !』
音に鳴らない咆哮、しかし、脳髄を麻痺させるその雄叫びは、最も近くにいた俺は勿論、十分に離れた位置に在った者達の魂を支配し、一瞬の隙を生み出させた。
それを敵の威嚇と判断し身構える俺を嘲笑うように、凶獣は再び咆えた。
《死を狩る凶獣》の咆哮、それに恐怖し、歓喜した狂乱の獣達が、完全に無防備となっていたスィーナ達に襲い掛かる。
「逃げろ、スィーナ!」
俺は、狂った獣達が真っ先にその爪牙の餌食にしようと狙うであろう存在に対し、警告の叫びを放つ。
自分がその傍らに在ったならば、身を挺して庇う事が出来ただろう。
しかし、それは叶わぬ願いであった。
一縷の望みが在るとしたら、それは、自分に代わって、その傍らに在る二人の存在がもたらす救いである。
しかし、それは望むことすら空しい想いだった。
当然の如く自らの身を護る事を優先し、スィーナという存在を切り捨てることを選ぶ二人の魔導師。
「俺は、又、大切なモノを護れないのか…」
俺の心に嘗て経験した恐怖と絶望が蘇る。
群がる獣達が壁となって、スィーナの姿を覆い隠す。
望まぬ現実を絶望が満たそうとしたその瞬間、それは天より舞い降りた。
『《 》』
ゆらゆらと揺れながら漂う様に花弁をたなびかせる一輪の華。
詠うは至高の詩、奏でるは天上の調、舞うは華美に華やぐ神楽舞。
それは、正に神の社を彩る為に存在する花房の化身であった。
否、その存在が身に纏った花弁を想わせる幻耀の光は魔力の陽炎であり、詩・調・舞からなる三位の全ては、それを統べる意思の顕れだった。
花房の化身たる『彼女』の意思に導かれた力は、光の刃となって、スィーナに襲いかかろうとした獣達を尽く灰塵に変える。
「お久しぶり、スィーナちゃん。元気にしていた?」
呑気な口調で挨拶する『彼女』の姿に、スィーナを始めとする誰もが唖然とする。
『……ありがとうです。助かったです』
救いの主である『彼女』の親しい挨拶に対し、自らも親しい感謝の言葉で応えるスィーナ。
その白銀に輝く毛皮の外套を頭から被った『彼女』の姿は、外套のフードに備えられた獣耳もあって、スィーナと良く似たシルエットをしていた。
「後顧の憂いも絶ったし、これで転んだら笑いモノよ!」
満面に嬉々として言い放つ『彼女』。
その視線の先には、彼の姿が在った。
「という事だ。笑われるのは癪だし、気合い入れてくぞ、セティ!」
苦笑に近い声でそう告げる彼の眼差しは、真剣なまでに鋭い意思の光を宿していた。
人間が天より与えられた才能を『天賦』、或いは『天稟』と呼ぶが、『彼』と『彼女』の示す『ソレ』は、そんな言葉で片付けられない眩しいぐらいの輝きに満ちていた。
新たなる敵として対峙する事となった『巨人』が、六本の腕を駆使して振るう熾烈な猛攻を、華麗ともいえる見事な技量で凌ぐ『彼』は、先刻の巨獣との戦いで見せた余裕が決して去勢ではない事を示していた。
そして、彼の戦いぶりと同じか、それ以上に俺を驚かせたのが、彼女の存在である。
『彼女』が使う魔導の力は、スィーナのそれに比べれば数段上ではあるが、ファーシとクィーサと比べて同等程度の階位でしかないのに、二人の『導司』の力を合わせても到底及ばない『鮮烈』な存在感を持っていた。
敵を攻撃魔法で撃てば正確無比、味方を回復と支援の魔法で助ければ完全なる的確さを持ち、延いては、巨獣が狂乱を導く咆哮を上げようとすれば、その絶対の瞬間を狙った一撃でそれを阻止し、反対に俺が奴に対して攻撃する為の隙を作ってくれる。
正に、『彼女』の魔導の力がこの戦場の流れを支配し、それまでに在った衆寡の不利を覆して、味方の状況を有利に変えていた。
その存在は、俺達にとっての『勝利の女神』となり、『彼』にとっての起爆剤となる。
俺とスィーナの事を信頼していたが、それでも気に掛けずにはいられなかったのであろう彼は、彼女の支援を受けて戦う俺達の姿を一瞥し、それに満足の笑みを浮かべると、次の瞬間には、完全な戦士の表情となり、自らの敵と真っ直ぐに対峙した。
『彼女』が戦場の流れを支配する存在であるなら、攻勢に転じた『彼』は、正に戦場の空気の全てを支配する存在であった。
彼が気合いと共にその手にした長剣を振るう度に、その身から発せられる強烈な闘氣によって、その場の空気が打ち震える。
彼と対峙する巨人は勿論、その空気に包まれた敵の全てが、そこに「恐れ」を感じていた。
・・・凄い、これが真の英雄である者が持つ力というモノなのか。
俺の心と魂は、彼が身に纏う『本物』の力に対し、『畏れ』と共に『歓喜』にも似たモノを感じて、打ち震えていた。
そして、俺は、自ずと『彼』と『彼女』が何者であるか、その正体に気が付いた。
彼こそが、師である存在を超える事を求めたアルディナより託された想いに応える為に、俺が超え無くてはならない『壁』である存在。
俺は、戦いが膠着状態となった巨獣と睨み合いながら、その視線の一端で彼の戦いに目を向ける。
巨大ともいえる体躯の巨人を相手にして、それを圧倒する強さを示す『彼』によって振るわれる『戦場の盟友』は、神々しき輝きを身に纏ってそこに存在していた。
「大丈夫?」
何時の間にか俺の傍らに在った彼女が気遣いかけてくれた言葉が、俺の意識を自らの戦いへと引き戻す。
「大丈夫です。唯、少しだけ眩し過ぎて……」
「眩しくても見たいと思えるのなら、それで充分よ」
彼女が告げるその言葉からは、何故だかそれがとても深い意味を持っているモノである事が感じられた。
「でも、今は目の前の戦いだけを見ていなさい。そうでないと、大切な存在がその手から零れ落ちてしまうかもしれないから」
それは叱るのではなく、諭す言葉。
そして、何故か深い悲哀を滲ませた言葉であった。
「分かりました」
俺は、その言葉を示す様に握った剣に力を込め直すと、目の前の敵へと意識を集中させた。