12
「駄目……姉さん、全然進まないよう。ごめんなさい、私のせいで……」
「諦めないで! ほら、岸までもうすぐよ! 頑張るのよ!」
病気で漁に出られない両親のため、姉妹は小船を押して海に出ていた。
漁の成果はまずまずだったが、妹が満足できず、いつもよりも沖に漕ぎ出したいと言い出したのだ。
少しぐらいならと沖に出たその途端、突然潮目が変わり、二人の乗る小船は沖へ沖へと流され始めたのだ。
陸地に戻るために必死に漕ぐが、非力な少女二人の力では、波の力に対抗するのは難しく、ついには、陸地が見えないほどに沖合いまで流されてしまったのだ。
私のせいだ。私が、もっときつく妹を止めていれば。
いまさら悔やんでも仕方ない。
今は、一刻も早く、岸に戻ることを考えなければ。
幸か不幸か、二人の目の前には島が見えていた。
それほど沖に出た事の無い自分や妹は、あんな島は知らない。
でも、陸地に辿り着ければ、とりあえず何とかなるはずだ。
二人は櫂を操り、島に向かって必死に漕ぎ始めた。
「ね、姉さん……あれ……!!」
青ざめた表情の妹の視線を辿ると、その先には波間に幾つもの瘤のようなものが隆起していた。
「キシャアアアアア!!」
その瘤のひとつが爆発するように盛り上がり、降り注ぐ水飛沫に悲鳴を上げた。
悪い時には悪い事が重なるものだ。
鎌首をもたげ、爬虫類特有の縦長の目で二人を睥睨するのは、近海には存在しないはずの海の暴君、海魔と呼ばれる大海蛇の姿だった。
「漕いで! 漕ぐのよ!!」
自分を奮い立たせるようにして叫ぶと、我武者羅に漕ぎ始めた。
「何しているの! 早くっ!」
弾かれたように妹が櫂を取り、姉の反対側を必死に漕ぎ始める。
海魔は、そんな彼女達の儚い抵抗をあざ笑うように、小船の周囲を周回し、転覆しない程度に波を立てて弄んだ。
猫が捕らえた鼠や小鳥を弄ぶように、暫くして飽きたらその胃袋に収めるつもりなのだろう。
(お願い! 誰でも良いから助けて……せめて、妹だけでも……!!)
その願いが天に通じたのかどうかは分らない。
今しも二人に襲い掛かろうとした海魔が、何かに気をとられるように顔を上げた。
姉妹もつられて、海魔の視線を追った。
空の向こうから奇妙なものが迫っていた。
何百何千という羽虫が一斉に飛び交えば、もしかしたら、そんな音が出るのかもしれない。
その斑色の奇妙なオタマジャクシのようなモノは、嘲笑うかのように海魔の周りを飛び回っていた。
オタマジャクシの頭の部分と尻尾の部分で、何かが目にも止まらぬ速さで回転を続けており、不快でけたたましい羽音は、そこから出ているようだった。
海魔は魂凍るような威嚇の声をあげ、長い身体をくねらせ、斑色の化け物に襲い掛かっていった。
斑色の化け物は、間一髪、海魔の一撃を躱すと、爆音のような羽音を響かせながら背後に回りこんだ。
必殺の一撃をいなされた海魔は、怒り狂ったように身をくねらせ、自身の身体で激しく水面を叩いた。
「きゃっ!!」
水面に投げ出されそうになり、二人は必死に小船の縁にしがみ付いた。
何だか良く分らないが、化け物二匹が争っている今がチャンスだ。
どの道、このまま呆けていては、勝った方の胃袋に収まるだけだ。
今のうちに、目の前の島まで逃げなければ。
「何してるの! 早く漕ぐのよ!」
呆けたように、新たに出現した羽音を立てる化け物を見つめる妹を叱咤した。
「人……」
「えっ?」
「姉さん、あれに人が乗ってる……」
おずおずと、斑色の化け物を指さし、妹は呟いた。
「な、何を馬鹿な事言ってるのよ!」
「嘘じゃないもん! 騎士みたいな兜を被ってた!」
言い争いを始める二人を余所に、二体の化け物の攻防は、早くも決着がつこうとしていた。
それまで海魔の攻撃に防戦一方だった、斑色のほうが、始めて牙をむいたのだ。
オタマジャクシのような形の、ちょうど口の部分に当たるところから長く伸びた、何本もの筒を束ねたような口吻が、突如激しく回転しながら火花を吐き出したのだ。
それを顔面にまともに食らった海魔は、肉片と体液を撒き散らしながらあっけなく四散してしまった。
「ひいっ!?」
頭上から降り注ぐ拳大の海魔の肉片の雨に、二人は思わず頭を覆った。
頭を殆ど失った海魔の身体は、痙攣するように波間をのた打ち回っていたが、直ぐに動かなくなった。
まさか、こんなに早く決着がつくなんて。
ああ、今度は私達の番だ。せめて、妹だけは。
そんな悲観的な考えに囚われながら顔を上げると、少し離れた位置で、斑色の化け物は、こちらに側面を向けて空中に静止していた。
そして、彼女は見た。
今まで、化け物の目だと思っていた部分に、人が乗っているのを。しかも、二人だ。
騎士の被るそれとはかなり違うが、妹が言うように兜のようなものを被っている。
まさか、こんな化け物を飼いならして、従わせているとでもいうのだろうか。
「信じられない……」
「ね! 言ったとおりでしょ! 私達を助けてくれたのよ!」
呆然と呟く隣で、妹が得意げに胸を張った。
妹は喜色満面で手を振っていた。
騎士(?)の二人が、口元に笑みを浮かべながら、軽く手を振り返して来たのが見えた。
前のほうに乗っている騎士が、前方の島を指差した。
おそらく、早く陸に上がれと言いたいのだろう。
そうしたいのは山々だが、海流のせいで、岸まで戻るのが難しいのだ。
二人の騎士に向かって首を振って見せると、騎士達の操る斑色の化け物が動いた。
ゆっくりと、自分達の小船の背後に回ると、海面近くまで高度を下げて静止した。
いったい、何をやっているんだろうと思ったが、すぐに彼らの意図に気が付いた。
後ろから水面に風を送り、追波を作ってくれているのだ。
追い波に乗った小船は、二人が漕がなくとも徐々に陸に向かって進み始めていた。
「漕ごう!」
「うんっ!」
二人は櫂を取ると、陸地に向かって懸命に漕ぎ始めた。
斑色の化け物が作り出す追波のお陰で、小船はスムーズに陸地に向かって進み始めた。
そんな二人を後押しするように、斑色の化け物が、じりじりと進みながら波を作ってくれた。
数十分後、あれほどの苦労がまるで嘘だったかのように、二人の乗る小船は砂浜に到着した。
「や、やった……」
「助かったぁ……」
抱き合って無事を喜ぶ二人の頭上を、追波で後押ししてくれた、斑色の化け物が飛び越していく。
「あの騎士様達にお礼を言わないと!」
「あっ!? こ、こら、待ちなさい!」
開けた場所に降り立とうとする斑色の化け物に向かって、妹は駆け出していった。
慌てて妹の後を追いながらも、頭上を飛び越えていくときに化け物の腹に見えた、お日様のようなマークに、何故か心を奪われていた。
「……獣耳と尻尾は無かったな。残念」
「何言ってんですか、アンタは」