3.書庫での事件
中々玄関に向かおうとしない兄様の背中を押しながら、私達は廊下を進んでいく。兄様はチラチラと振り返りながら、本当にいいの? 行っちゃってもいいの? 寂しいよね? 的なことを言いながら視線で訴えかけてくる。
朝食の際に、その話は決着がついた筈ですよね。兄様……。
家を出る予定時刻を過ぎても、あーだこーだと駄々をこねて出発しようとしない兄様を、執事の手も借りてぐいぐいと力ずくで外に出し、ルカと一緒に見送った。
最後まで、後ろ髪引かれまくりでしたが……。
「エルねぇさま、きょうはぼくとずっと、あそんでくださるのですよね?」
「えぇ。今日は習い事もないし、一日中ルカと遊べるわ」
「とっても、うれしいです!」
しゃがんで目線を合わせて話す私の手を握って、ルカは目を輝かせている。えへへーと声に出して笑っているルカのほっぺを、繋いでいない方の手で軽くツンと突いて、私も嬉しいわと微笑んで答えた。
結局、ルカの希望で午前中は書庫で過ごすことになった。
書庫といっても、一般的な意味の書物を保存格納するような部屋ではなく、図書館のように広く、快適な場所だ。
フェアヘイレン家の蔵書数は公爵家だということを踏まえても、かなり多いらしい。父様も読書家だが、きっと歴代の当主達もそうだったのだろう。壁一面に整然と並べられた本の中から、気になるものを選んでいく。ルカは絵本や童話の類いの本棚の前で、何を読もうか悩んでいるようだ。
先程まで、入口の扉の近くに待機していたエマは執事長に呼ばれ、書庫を離れている。
ついでにお茶をお願いしておけばよかったな。
読書をするのに丁度良い明るさがある窓際のサイドテーブルに、数冊の本を置いて、ソファーに座って開く。
換気の為にどこかの窓が開いているのだろう、優しい風の流れを感じた。
穏やかな時間に寛ぎつつも、いつのまにか頭は文章を捉えておらず、朝見た夢のことをぼんやりと考えてしまっていた。
あの夢は、今のルカと同じ三歳ぐらいからみるようになった。当時は気持ちの整理ができずに泣き続ける私を、優しかった母様は落ち着くまで抱きしめてくれた。大丈夫よ。大丈夫。そう何度も穏やかな声で繰り返し、泣き止むまで背中を摩ってくれた。ルカを産んだ後に、体調を崩された母様が亡くなってしまわれてからは、その役割はエマがしてくれている。
ふと気付くと本を抱えながら心配そうに私を窺っているルカが私の前にいた。側に来ていることにも気付かない程、浸ってしまっていたらしい。
「ルカ。読みたい本は見つかった?」
「……はい。エルねぇさま、このごほんをよんでほしいです」
差し出して来た本は童話集だ。絵本などはもうルカも自力で読むことができるが、まだ読むことが難しいものはこうやって私の所に持ってくる。
「色々あるわね。どのお話がいいかしら?」
ルカを私の隣に座らせて、分厚い本の目次を一緒に覗き込む。
「おひめさまと、おうじさまがでてくる、おはなしがいいです!」
「お姫様と王子様ね。それならば……。」
目次を指で上から下になぞっていくと、一つのタイトルの所で止まった。
『ヴァルトの姫』
目にした瞬間に、ドクンッと心臓が一跳ねした。そして、バクバクと普段ではあり得ない速度で早鐘を打つ。手足は小刻みに震え、血の気が全身から引いていくのがわかる。
あぁ、やってしまった……! 早く……。早く、離さなければ!!
今にも意識が遠のきそうな頭を、ぐっと下唇を噛み締めて痛みで引き戻す。その間に、震えた手で本を強引に閉じて、乱暴に床に放った。飛んでいった本は鈍い音を立てて、一メートルぐらい離れた所に着地した。
その一連の流れに、ルカはビクッと肩を揺らした。
本を手放した後も呼吸は上手くできず、どんどん苦しくなっていく。
「エルねぇさま?! どうなさいました?」
突然のことに顔を真っ青にしているルカが視界の隅に見えた。
「ル…ルカ…。だっ、だれか、よ、んで、きてっ……」
「ねぇさま!!!!!!」
やっとのことで言葉を発した後、私の視界はそのまま暗転し、ソファーに倒れ込んだ。ルカの叫び声が、私の耳の奥で響いた。




