少年とナイフ
市役所に行く用事があったので、
余りまくってた有給休暇を取得することにした。
上司にブツクサ文句を言われながら休暇届を提出する。
もっとも午前中に用事を済ませしてしまうと、
後は特にする事も無くなった。
このまま惰眠を貪っても良いが、折角取った有給が勿体ない気もする。
ただ、今から半日でそこそこ楽しめる場所となると・・・・
私はしばしの思考の末、久しぶりに釣りに出かけることにしたのだった。
押し入れで埃を被っていたタックルボックスを引っ張り出し、
一応の装備を確認する。よし大体はそろっている。
あと必要なのはエサとクーラーの氷くらいだ。
途中に有る釣具屋でサビキ用のオキアミと氷を補充し、
そのまま南港に向かう。
私のいつもの釣りポイントは、
傍ににテトラポットと灯台が有る波止場で、
比較的釣果が望めるが、人は少なめという穴場スポットだ。
特に今日は平日でもあり、人っ子一人いなかった。
私は気を良くして、竿を伸ばすと、
タックルボックスからサビキ釣りの仕掛けを引っ張り出した。
サビキ釣りというのはオキアミを入れた籠の上に
サバ皮のハリスを付けた仕掛けで小魚を釣るという、波止では最もポピュラーな釣りで、サビキにボウズ無しという格言もある。
10月半ばの気候は暑くも寒くもなく
釣りをするのには持って来いだ。
ただあまりにも気持ちが良すぎたせいで、
思わず船を漕ぎそうになる。
まあ、どうせ時間は十分ある。
私は家から持ってきたポットのコーヒーを
チビチビ飲みながら、のんびりと釣りを楽しむことにした。
天気は快晴、気分も上々、こんな日くらいは仕事の事を忘れて、思いっきり羽を伸ばすことにしよう。
ただ、しばらくコーヒー片手に釣り糸を垂れていると、いつの間にやら私の後ろに人影が有る事に気が付いた。
竿を出していない事から釣り師では無いらしいが、野次馬だろうか。
私はコーヒーを置くついでに、さりげなく後ろを振り返った。
そこにいたのは意外にも12、3歳の少年だった。
痩せぎすな体と聞かん気な表情。
良く日に焼けたすらりとした健康的な手足。
そろそろ秋も深まってきているのに、
少年の服装は半袖と短パンだった。
私は興味深げに少年の顔を覗き込んだ。
ただ、少年は私の視線を露骨にそらすと、
視線をそのまま海に向けてしまった。
私は仕方なくそのまま釣りを再開することにした。
ただ少年の方もこちらが気になるらしく、
チラチラ視線を送ってくる。
もっとも少年の興味は私そのものよりも、
どちらか言えば私の持っているタックルボックスにあるらしく、かなり露骨な視線をタックルボックスに送ってくる。
元来小心者の私にとって、
このままでは気になって釣りどころではない。
私は年長者の余裕を見せることにした。
「どうした坊主。釣り道具が珍しいのか。」
声を掛けられるとは思っていなかったのか、
少年は一瞬ビクリとしたが、
恐る恐る私に話しかけてきた。
「ねえ、少し触ってもいい。」
変声期前の少し甲高い声が少年の口からこぼれ出る。
「ああ、構わんよ。」
私はなるべくぞんざいに少年を扱うことにした。
多分そのほうが向こうも気を使わなくてすむだろう。
私は表向き釣りに集中してるふりをしながら、
チラチラと少年の方を伺った。
少年は私のタックルボックスを空けると、
ルアーやら疑似餌やらを取り出して珍し気に眺めていた。
ただ、やがてボックスの奥にしまっていた、
一振りのナイフを見つけ出した。
やれやれ、やっぱり見つかったか。
少年の見つけたナイフはドイツのゾリンゲン社製で
二年前のボーナスで衝動買いした結構な高級品だ。
私にも覚えがあるが、
やはりこの年頃の男子は刃物の類に目が無いのだ。
少年は皮鞘からそのナイフを引き抜くと、
白々とした刃に自らを映して関心を示した。
その表情はどこか恍惚としている。
「気を付けろよ。無茶苦茶切れるぞ、そのナイフは。」
「ねえ、何か切っていい!!」
「ああ、自分と俺以外ならな。」
少年は早速どこからともなく引っ張り出してきた木片を、ナイフで削り始めた。その集中は見ていて少し怖くなるほどだった。
一心不乱にナイフを振う少年は、
私に過去のある過ちを思い出させる。
そう実はこの少年と同じ歳頃に、私は1つ犯罪をやらかしているのだ。
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あれは今から30年ほど前だろうか、
当時の私は海に夢中だった。
学校が夏休みに入ったのを良いことに、
足しげく海に通ったものだった。
母親に作ってもらった弁当を持って、
自宅から30分くらいかけて自転車で南港に向かい、
そこで一日を過ごす。
それが私の夏休みの日課になっていた。
当時は釣り道具を持ってなかったので、
やったことと言えば、もっぱら海と釣り人の観察だったが、
それでも海は楽しかった。
磯のテトラに張り付いたフジツボやカメノテ、
波止の隙間をはい歩くフナムシやカニ、
時折海面から跳ねるボラや、水面を悠々と泳ぐエイ
海辺の生物達は私を深く魅了した。
また外国に向かう船や沖に浮かぶ島々は、
私に異国情緒を感じさせてくれた。
そう、当時の私にとって海は未知の宝庫だった。
そんな折、私は一人の釣り師のオジサンと知り合った。
オジサンと言っても当時で今の私の年齢と同じぐらいだろから、おそらく40代半ばが50代の前半だっただろう。
ただ頭髪は綺麗に禿げ上がっていて、何時も頭に手拭いを巻いていた。
「ボウズまた来たのか。」
おじさんは波止で私を見掛ける度、毎回声を掛けてくれた。
おじさんは何時も波止の同じ場所に座って竿を出していたが、
今から考えても奇妙な事に、そのおじさんが魚を釣り上げた瞬間を見た事はついに一度も無かった。
当時の私は父親とは異なる大人であるおじさんに興味を持ったが、
それ以上に心惹かれたのはおじさんの持っていた釣り道具だった。
ピカピカのルアーや疑似餌、
流線形のアンカーや鋭い返しの付いた釣り針。
おじさんの持ってたちょっと古風な木製の釣具入れは、
私にとっては一種の宝箱だった。
ただ、中でも特に魅了されたのは釣具入れの奥に仕舞われた、
刃渡り10センチくらいの白木鞘の小刀だった。
鞘から抜けばいつも濡れた様な刃が光り、
しっとりと手に馴染む白木の柄は
手放すのが惜しまれるほどだった。
小刀は根元に銘が入っていて、
子供にも高級品であることが分かる代物だったが、
私がいくらその小刀で遊んでも、
おじさんは文句ひとつ言わなかった。
ただ、そんなおじさんの好意を、
私は思いっきり踏みにじってしまった。
ある日おじさんがトイレに立った瞬間、
私はその小刀を盗んで逃げたのだ。
人の物を盗んだのはあれが最初で最後だった。
最初に感じた盗みの高揚感の様なものは、
すぐに後悔へと変わり、後に残ったのは「もう海には行けないな」という失望感だけだった。
事実、その事件はあれほど足しげく通っていた海から、
私を遠ざけてしまった。
盗んだ小刀はしばらく私の宝であり続けたが、
半年後、池に落として無くしてしまった。
今から30年ほど前の出来事だった。
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思えば私が少年に興味を持ったのも、
この思い出が有るがゆえだろう。
ただ少年も私に自身に興味があるらしく、
ナイフを振う手をしばし止めては、こちらをチラチラと伺ってくる。
私はなるべく気にしないふりをしながら、
釣り竿に神経を集中した。
小一時間ほどたった。
少年はナイフを振うことにも飽きたのか、
少し離れた場所で三角座りして私の方ををぼんやり眺めている。
ただ、こちらの方は少年に気を取られているせいもあり、
釣果はボロボロだった。
クーラーの中には小さな青物が5、6匹とイワシが3、4匹。
せっかく休みの半日を費やしたのにこれでは少し物足りない。
私は一か八か大物を狙ってみることにした。
取りあえずサビキをしまい、少し重めのアンカーを噛ます。
ハリスをワイヤー製のモノに変え、針にさっき釣ったイワシを掛ける。
そう狙うのは太刀魚だ。
頃よく丁度日も傾いてきた。本来太刀魚は夜釣りが基本だが、
日の傾きかけたマズメ時も結構な狙い目なのだ。
私はソファーから尻を上げると、
取りあえずうーーーーんと背伸びをし、
2、3回の試振りの後、思いっきり沖に向かってキャスティングした。
投げたアンカーに引かれたリール糸が、
少し傾いた日の光を浴び、キラキラ光りながら伸びていく。
ただ私の様子が少し変わったことに気付いた少年が、
いつの間にやら近くに寄ってきて、
私の一挙手、一頭足に注目し始めた。
ううっ、やり難い・・・実は仕掛けこそ用意していたが、
私は太刀魚を釣ったことが一度も無かったのだ。
ビギナーズラックに期待した第一投は敢え無く空振りに終わり、
第二投、第三投と続けてキャストする。
ただ、私の狙いが悪いのか、そもそも太刀魚が居ないのか、
何度キャストしても手ごたえはゼロだった。
最初こそ熱い眼差しを注いできた少年だったが、
段々飽きてきたらしく、今度はさっきのナイフで、
どこからともなく持ってきた薪を割り始めた。
やって分かったのだが、キャスティングは意外に体力を使う。
特に普段デスクワークしかしていない我が身には堪える。
やがて日も段々と暮れてきて、
西の海岸線に太陽が差し掛かり始めた。
この調子だとあと二、三投だな・・・
そう腹積もりをした瞬間だった。
いきなりガクンという強いアタリが来たかと思うと、
ものすごい勢いで竿がしなり、リール糸が持っていかれた。
太刀魚だ!! しかもかなりデカい!!
私は直感でそう判断した。
アタリに負けない様、竿を立ててリールを巻き始めると、
かなりの手ごたえを感じた。
正直キャスティングよりもはるかに重労働だが、
モチベーションが違う為か全く苦にならない。
気が付けばいつの間に少年が、
腕を握りしめて私の釣果を見守っている。
ううっ、これはバラすと恥ずかしいぞ。
ただ、針は十分フックしている様で、その心配は無さそうだ。
しばらく巻き取ると水中から太刀魚の魚影が見え始めた。
やはりでかい・・・どうやらメートルオーバーの代物の様だ。
夕日を映して深紅に染まった海面を、文字通り太刀の様な銀色の魚影が滑る。
私は十分に糸を巻き取ると、
竿を下して太刀魚の魚体を波止に近づけた。
タモ網が欲しいところだが、残念ながら手元にはない。
私はそのまま竿を立てて水面から太刀魚を引っこ抜いた。
夕日を浴びて紅に反射する太刀魚の魚体が、
スローモーションの様舞い上がり、やがて波止に落下する。
私は歓喜の表情で、仕掛けを外すべく太刀魚の口に手を伸ばした。
「ダメだ!!!」
少年の叫び声とほぼ同時に、私の右人差指に激痛が走った・・・
太刀魚に噛まれたのだ。。
そう、喜びのあまりすっかり失念していたが、
太刀魚の歯はテグスを容易に切断するほど鋭いのだ。
私は慌てて右手を振って振りほどこうとしたが、
太刀魚は文字通り死力を尽くして食いついている為、
全く離れる気配がない。
「そこに魚を置いて!!」
少年はさっきまで削っていた薪を私に投げ出して言った。
私は少年に言われるまま、
指に食いついたままの太刀魚を薪の上に置いた
「!!!」
少年は逆手に持ったゾリンゲンのナイフを、
力いっぱい太刀魚の首に突き刺した。
「コン!」という鈍い音がしてナイフの先端が薪に食い込む。
ナイフに串刺された太刀魚はしばしピクピク痙攣したかと思うと、
やがて絶命した。
指に掛かっていた力が無くなったため、
私は恐る恐る指を引き抜いた。
数瞬後、噛まれた傷跡から嘘の様に血が噴き出した。
傷はかなり深いようで、
吹き出す血の間から白白した肉が見えている。
私はやむを得ず左手で右手の手首を抑えて止血した。
とりあえず血は止まったがこのままでは何もできない。
「待ってて!!」
少年はしばらく姿を消したかと思うと、
やがて2、30cmほどの野草をもって現れた。
匂いからしてどうやらヨモギらしい。
確か止血、消毒作用があるはずだ。
「ちょっと我慢して。」
少年はヨモギを揉んで柔らかくすると、
そのまま私の人差し指に巻き付けた。
一瞬、痛みで気が遠くなるが、応急処置として十分だ。
新緑色のヨモギが即座に私の血でどす黒く染まる。
「あとはこれを指の根元に巻いておくといいよ。」
少年が私に差し出したのはタックルボックスに入っていた、
ウキ用のゴム管だった。
なるほど・・・人差し指に巻くと血はピッタリと止まった。
「ありがとう」
私は痛みに脂汗を浮かべながら、何とかそれだけを口にした。
「前に父ちゃんが太刀魚に噛まれたとき、そうしてたから。」
「そうか、父ちゃんにも礼を言っておいてくれ。」
ただ、私が何気に口にした言葉に少年は表情を強張らせた。
「父ちゃん、もう居ない。」
一瞬、居ないの理由を尋ねたい衝動に駆られたが、
少年の佇まいには私の質問を拒絶する何かがあった。
「そうか・・・」
私は何とかそれだけ口にすると、話すべき言葉を失った。
なんとも言えない沈黙が、二人の間を取り巻いた。
少年は痛みをこらえる様な目で、ひたすら海を眺めていた。
ただ、これで少年が私を見る目に合点がいった。
私が少年に過去の自分を重ねてた様に、
少年はおそらく私に父親を重ねていたのだ。
「父ちゃん・・・おじさんに似てたのか。」
沈黙に耐え切れず、私はぼそりと言った。
自分の事をオジサンと呼ぶのは抵抗が有るが、
今の私は少年にとってオジサン意外の何物でもない。
「全然似てない。父さん海の男だった。
いつもこの波止で魚をいっぱい釣ってた。」
少年の背中は震えていた。
おそらく涙を堪えているのだろう。
精一杯虚勢を張ったその後ろ姿を見ていると、
私の中の湿った部分が顔を出し、
何かをせずには居られなくなった。
私は怪我をしていない左手で、少年の頭をクシャリと撫でた。
ただ、少年はお気に召さなかったらしく、
私の手をぞんざいに払うと、
口をへの字にしてひたすら海の一点を睨み付けた。
まるで過去にそこに居た誰かを呼び戻すかのような目線で・・・
私も取りあえず少年に倣うことにした。
言葉を閉ざし、ひたすら海の一点を見つめる。
やがて私たちは別の理由で同時に言葉を失った。
すでに海面下に没した太陽が、
熾火の様な最後の明かりで海を薔薇色に染め始めたのだ。
少年の心の痛みも、私の指の痛みも、
しばし忘れさせてしまう様な、美しい美しい夕焼け。
傷ついた私たちに世界はどこまでも優しかった。
ただ、日が沈んで間もなくすると、
少年は猫の様に不意に居なくなってしまった。
私は仕方なく不自由な手で竿を畳むと、
仕掛けとリールをタックルボックスにしまい込んだ。
ゾリンゲンのナイフはもちろん無くなっていた。
太刀魚の入ったクーラーを担ぎながら、
私は笑い出さずにはいられなかった。
取り立てて目新しい話ではないですが、この手の思い出は誰にもあるはず。
そう、大人は昔は皆子供だったのです。




