今川氏真
今日も殿はおっかない。
朝から、味噌汁の温度が熱すぎると言っては膳をひっくり返し、息が臭いと言っては小姓を蹴り飛ばす。
林殿は勘気に触れ、今日も手打ちにされかかっていた。これでもう三日連続だ。
これが織田家の日常茶飯時である。
そんな殿の本日のご予定であるが、旧敵との面談だ。
面談と言っても要は強引に呼びつけて平伏させるだけの儀式である。
滅ぼした相手に更なる屈辱を与えるのがお好きらしく、こうした機会はしばしばある。
我が殿ながら、全くもって性根が悪い。
初夏の強い陽射しの中、その男はふらっと現れた。
まるで旧友と碁でも打ちに来たかのように。
今川氏真。
殿の飛躍のきっかけとなった、桶狭間の戦で討たれた今川義元の継嗣である。
桶狭間以降、家督を継いだものの、徳川家康を始め家臣団にことごとく見限られ、ついには武田家にも見放された。
徳川と武田に両面から圧迫され続け、ついに今川家は滅んだ。
現在は徳川家の庇護下にある。家康も、さすがに旧主が路頭に迷うのは忍びないのだろう。
「お招き頂き光栄にございます。初めてお目にかかりますな、信長公。」
柔和な笑顔にまっすぐ伸びた背筋。
巷の話では凡愚極まるだらしない男、と聞いていたのだが。
こういう面談での殿はいつも、足を投げ出し頬肘を付いて傲岸不遜である。
そんな殿に対し、怯えも無ければ緊張も感じない、不思議な物腰であった。
「大儀である。まぁつまらん挨拶は良いわ。氏真殿。義元公の倅なれば、ワシの事をさぞ恨んでおるのであろうな。」
殿はまっすぐに相手をにらみつける。どんな相手もたじろぐ、あの目だ。
氏真は目線を外す事もなく、少し間を置いてこう言って微笑んだ。
「そうですなぁ。以前は多少、いやさだいぶ、恨んでおりましたかな。」
場に緊張が走る。この男、正直に何を言っているのか。
しかし殿は特に気に留める様子も無く続けた。
「聞けば家康の世話になっておるそうじゃな。そもそも奴が裏切った故、貴殿はこうして敗れたわけじゃ。そんな男の世話になるとは、海道一の弓取りも落ちたものよ。義元公も冥府で嘆いておろう。」
カハハ、と殿は哄笑する。
「かもしれませぬなぁ。父上は立派な棟梁でした。それがしはなにせ戦下手、不肖の息子にござったし。」
あれ。氏真も笑っている。
「とはいえ家康公は、幼き頃より父上もずいぶんと買っておられましてな。たいそう立派になられて、それはそれで我が弟の事のように嬉しくもあるのですよ。」
うむうむ、と殿は頷くが、こちらとしては調子が狂う。
この男は負けた事を恥じていない。吐く言葉に嘘偽りも無い。
それがはっきりと伝わるからだ。
逆に殿は調子づいて、今川家の凋落の過程を追っていった。
時折、事実関係を氏真に確認しては、笑い、驚き、時には感心し。
氏真は穏やかに会話の相手を務めていた。
「サルよ。」
不意に名を呼ばれる。酒を運べとの仰せだ。なんとも、珍しい。
殿がいつになく上機嫌なので、我々もいつしか肩の力が抜け、歌えや踊れやの大宴会となった。
皆でこうして酒を楽しまれるなんて、いつぶりの事だろうか。
宴のさなか、殿はしみじみと呟いた。
「氏真殿、義元公は手強かったぞ。いまだに何故ワシが勝てたのかよう分からんわ。手違いで出した斥候部隊が、たまたま旗本の真横に出た。そのまま乱戦よ。・・・あれは、天運としか言いようがないのかもしれぬ。」
今川義元は桶狭間で命を落とさなければ、間違いなく京へ上っただろう。
それだけの傑物だった。そして、その傑物を討ったのは殿だ。
「天運、ですか。」
氏真はふと、寂しげな眼差しになった。
「信長公。天とは、、、勝手なものですなぁ。」
殿は黙って盃を傾けている。
「それがしは今、妻と子らとのんびり暮らしております。
時に歌を詠み、山を歩き・・・正直、性に合うております。
今はもう、誰恨むことも恨まれる事もありませぬ。」
氏真は立ち上がり、殿に歩み寄った。
刀を抜きかけた両脇の近侍を、殿が手で制する。
「天は、それがしにはふさわしい生き方を与えてくれもうした。
ですが、それがかなわぬ方もいらっしゃる。」
いつしか場は静かになっていた。殿は黙っている。
氏真は片膝ついて酌をし、ニッと白い歯を見せた。
「信長公。いつでも我が家に遊びに来て下され。大したおもてなしはできませぬがの。」
殿はしばし杯の中の酒を見つめていたが、一気に飲み干した。
プハーっとしぶきを飛ばし、豪快に笑った。
「一人前に生意気を申しよるわ。この道楽者が。」
ニヤリと笑うと、氏真に返杯する。氏真はそれを微笑みながら飲み干す。
「氏真殿。ひとつ、蹴鞠でも教えてはくれぬか。」
雲一つ無い青空に、鞠が高く舞い上がる。
額から汗を吹き出しながら、見たことの無い笑顔で殿が鞠を追う。
殿は一日だけ天に、屈託のない少年に戻る事を許された。
氏真の不思議な優しさが、そういう気持ちにさせてくれたのだろう。
明日からはまた戦に明け暮れる日々が始まる。
世はまだまだ乱れている。この国には天下人が必要なのだ。
私情を捨て、並み居る敵意をものともせず、数多を背負っていく天下人が。
日が暮れかかってきていた。
この場所だけで構わない。今日だけはいつまでも照らしていてくれ。
天に、願った。