実は恋人がいるんだ
懐中電灯の明かりがゆっくりと動く。古代遺跡を行く探検家の灯火のように。八の字、筆記体のA、漢字の序を宙に描く。しかし、恐らく本人にそのつもりはないだろう。
明かりを持つのはうら若い、まだナース帽も被り慣れない看護婦である。空いた手で胸元を押さえ、小さな物音にさえ震えながら、長い廊下を二本の足で踏みしめて歩いている。無理もない。突き当たりの女子トイレには女の霊が出るという。異様に姿形のしっかりした霊で、尻の形さえもくっきり見えると噂だった。
明かりが三〇二号室にさしかかり、そして過ぎていく。赤田夏彦は薄い布団を頭からすっぽりと被り、目だけ出して、外界を窺っていた。瞬きするのも忘れ、息を殺し、何事もなく彼女が過ぎ去るのを見送った。
夜更かしする子供と同じく大人の目をかいくぐろうとしている三〇過ぎの男は己の蛮行に呆れつつも興奮していた。今まで銀行員として実績と信頼を築いてきた社会という得体の知れないものを裏切っているようで、非常に満たされた気持ちだ。彼からはもう懐中電灯は見えない。大きく頷くと、さらに布団の奥深くへ、そして、スマートホンに向かい合う。新しくしたばかりの機種で、一文字一文字命を削るように刻む。
恥ずかしい告白と願いを、電波という従順な鳩にくくりつけ、飛ばすために。
おはよう。このメールを打っているのは夜中だが、きっとお前は起きてからこれを目にするだろう。高校の頃から、お前は先生の怒鳴り声でさえも覚醒しないヤツだからな。本当はもっと早く返信する予定だったが、時間を割けず、すまない。体は、足以外は何ともない。病院食もお見舞いも綺麗に平らげるし、食後の筋トレも日経ジャーナル斜め読みもいつも通りだ。仰々しいギブスが取れたら、すぐに現場復帰だ。もう少し痛々しい包帯姿にでもなれれば、さらに休めたと思う。残念だ。
当行の上司も部下もよく見舞いに来る。ありがたいことに、名物の濡れせんべいを食べつつ、新年会の帰り道で電柱を蹴ってしまった俺の事を笑ってくれてる。
わざわざ都内から犬吠埼まで見舞いに来てくれると聞いて驚いた。今、忙しいんだろ? 貴社の秋葉原での営業が実りそうだと聞いていたが。骨折くらいで遠くから見舞いのために降臨してくれるなんて、お前は良くできた友達だ。もしくは、奥さんと一緒にいることを、窮屈に感じているから、時間潰しに見舞ってくれるのか? ……まさか、冗談だよ。
実は、俺も大事な人ができた。年下で、どちらかというと女子と呼んだ方がいいかもしれない、若い子だ。ショートカットで、細身で、性格は物静かを通り越してとても論理的で淡泊。難しい本が好きで、いつも本に顔を埋めてる。若くしてパイロットとして働いていて、どんな場面に遭遇しても顔色一つ変えない。強い女性かと思えば、肉が嫌いで、ラーメンからわざわざチャーシューを抜いたりする。
いろいろなところへ行った。一番の思い出は箱根だ。俺とカノジョと、カノジョの友達とその彼氏の四人で行った。仙石原にある古い旅館に泊まった。天井の木目が年季入っていて、全員で何が見えるか連想して遊んだ。カノジョは、壊れた眼鏡だと言った。貸し切り風呂のお湯が熱かったのも、鮮烈だった。全員肌を真っ赤にして、お互いを笑いあった。カノジョに全裸でうろつかれたのも忘れられない。おっと、これは失礼した。
俺、本当にカノジョのことを大事にしている。こんな気持ち、初めてだ。俺の家に置いてあるカノジョのモノは全て綺麗に片付けてある。寝室と居間のそれぞれ一箇所ずつ、カノジョのための領域がある。カノジョは味噌汁が好物で、俺は最近、喜んでもらうためだけに出汁の採り方にもすごく気を遣っている。今までろくに包丁を持ったことがない俺がだ。カノジョも、俺といると何だかぽかぽかすると言ってくれた。
しかしだ。銀行も余剰の時間や金で融資をするだろ? 長く付き合っていて、頂点があって、ふっとそれを過ぎた頃、気持ちに余裕ができた。そこに彼女が入ってきたんだ。
金髪碧眼の女性なんだ。俺もまさか自分にその趣味があると思わなかった。非常に高い目標を持っていて、実力も兼ね備えている。決断力もある。少しだけ、人の気持ちを理解しないところもあって、それがまた可愛い。バイクも乗りこなすんだ。ヤマハのV―MAX。痺れるくらい格好いい。
俺は両方とも好きだったから、それぞれ別個のものとして認識していた。二人とも、それぞれの良さがあるし、麗しいし、愛らしい。どちらが好き、とかいう順位付けはしていなかった。
ところが女性の立場からは違うようだ。
ある日、実家が農家の先輩からもらったサツマイモを浮気相手と食べていたら、唐突に前から付き合っているカノジョのことに話が及んだ。一度に二人の女性と付き合うのは卑劣だ、邪道だ、騎士道に反すると。烈火の如く怒り狂っていた。正論という名の聖剣を振り回し、俺がどんな気持ちになっているか一ミリも考えず、打ちのめす。人の皮を被った悪魔だと罵ってきた。
俺の足下は揺らいだ。俺の人生が全て偽物だったんじゃないかと疑うくらいに落ち込んだ。風邪だと偽って一日床に伏せた。俺らしくもないと言い聞かせるが、果たして、俺らしいとは何か煩悶する。答えをはじき出せず、息もできないほどに苦しくて、前からのカノジョに相談したんだ。「こんな時、どうすればいいか分からないんだ」と告げた。カノジョは、その時、遺伝子何とかの本を読んでいたんだが、顔を上げて、じっくり俺の話を聞いて、「何を願うの?」と問い返してきた。そして、あなたが望むならあなたの好きにすればいい、ということを言った。それ以上、何も言わなかった。全く、俺を信じてくれていた。
そんな中で、俺は足を折った。家にも帰ることができず、二人に連絡もできなかった。
行員たちが訪なうことはあった。それ以外の時間、隣や向かいの患者を観察しながら、呆けた。天井の模様とギブスで、色々と妄想した。
類は友を呼ぶって事なのか、俺のいる店舗は体育会系の行員が多い。大人数でわいわいと来て、ギブスに応援の言葉を書き残し、今夜は飲み会だと騒ぎながら帰っていく。行員っぽいかっきりした文字で、女っぽい丸い文字は皆無だ。
一人か二人、書き込めそうな空白があるんだが、俺はその部分を想像で埋めるしかできなかった。まず、浮気相手を想像しようとした。青いドレスの彼女が、病室に押しかけてきて、黒いマジックペンを取り、何かを書いて、何かを言う。
ところが、彼女の記す文言も台詞もまったく想像できないのだ。それどころか、どんな表情を見せてくるか、どれだけ心配してくれるか、はかれなかった。
俺は愕然とした。俺にとって、彼女はそんなものだった。
カノジョは、浮気相手とは全く逆だった。カノジョの名前を一度心で呟くだけで、想像は膨らんだ。
ギブスに何を書くか、そしてどうやって心配してくれるかは勿論、静かに病室の扉を開ける様や、声のトーン、揺れる髪の毛、シャンプーの香り、息づかいも足音も鮮やかに再生できた。
俺は今さら、カノジョと過ごしてきた時間が濃厚で、かけがえなくて、大切なものだと知った。
カノジョを……愛している。
そこでだ。折り入ってお前に頼みがある。カノジョを連れてきて欲しい。大丈夫、難しい話じゃない。重くない。大きさもお前がいつも幕張に持って行く鞄にしっかり収まる。
カノジョは俺の部屋にいる。住所は知ってるな? ポストに合い鍵が入っている。暗証番号は〇三三〇、カノジョの誕生日だ。
玄関を開けたら右手側に寝室がある。壁際のタンスの横に背面ガラスのコレクションケースが二棹ある。タンスよりのケース、上から七番目だ。その一段下には浮気相手を飾ってある。すごく厳しい目で睨んでくると思うが、無視していい。俺が好きなのは、セイバーじゃなくて、カノジョなんだと分かったから。
もう一度言う。セイバーじゃない。綾波を連れてきてくれ。観賞用に箱から出してある、プラグスーツバージョンの綾波レイのフィギュアを持ってきてくれ。
赤田夏彦からのメールを、押尾征二は電車の中で見た。銚子行きの人もまばらな車内である。三つ離れた席で、老婆が居眠りをしている。車窓から見えるのは、日本人の好みそうな長閑な風景で、スーツ姿の征二はいくらか場違いだった。しかし、彼は気にとめず、憮然とした表情で膝に置いたリュックに電話をしまった。その代わり、ハンカチを取り出して、熱くなった目頭を押さえた。
つい出来心です。
すみませんでした。
ちなみにこの小説にはモデルとなった実在の人物がおります。
キーワードにひそませました。