救世主と呼ばれた男、その完全犯罪の記録
1
悪路というほどではなかった。しかし、街なかでの運転に慣れきった男にとって、このような道はあまり快適なドライブとは言えなかった。
「しかし、よく取材受けてくれましたよね。相当の難物って聞いてましたけど」
助手とカメラマンを兼ねた役割を与えられた男。彼は片手で無造作にハンドルを握り、沈黙を恐れるかのように限りなく独り言に近い言葉を垂れ流し続けていた。
土にできた溝を踏んだ車が軽く上下する。
「いいから前見て運転しなさい」
記者としてキャリアを重ねる上で、千載一遇とも言える機会を掴んだはずの女。しかし彼女は助手席のシートに体を埋めて、つまらなそうに窓の外を流れていく景色を眺めていた。
小高い丘を登り始めた車の助手席からは、遥か遠くに陽光を受ける海のきらめきが見える。
「お、あれじゃないですか?」
助手の声に、女記者は視線を前方に向ける。小洒落た設計の洋風な一軒家が木々の隙間からその姿を現しつつあった。
2
その初老の学者、正確には元学者の男は愛想笑いも無しにドアを開けた。引退するにはやや早すぎる年齢だが、彼の功績そのものは凡百の同業者を一万人束にしても足元にも及ばないという評価が一般的な認識だった。
学者はこの家に一人で住んでいるとのことで、滅多なことでは家に他人を入れないことで有名な偏屈者だった。女記者は上辺だけの営業スマイルで軽く自己紹介し、学者に対し形式通りの謝意を述べた。
その態度に学者は気を悪くする様子もなく、二人の前に立って家の中へと招き入れる。
女記者と助手が通された応接室は、一面の壁を背の高い本棚でびっしりと覆われた部屋で、学者のささやかな憩いの場も兼ねているらしかった。
ソファにかけた二人の前に、学者が紅茶を置く。
女記者はそれに手をつけずに、部屋の中をぐるりと見回す。彼女が静かに語る声にはいくばくかの皮肉めいた色が浮かんでいた。
「画期的な研究によって世界にエネルギー革命を起こし、『人類の救世主』とまで持ち上げられた方にしては、随分と質素なお暮らしなんですね」
学者はしわの目立ち始めた口元に自嘲的な笑みを浮かべた。
「余分な物は持たないようにしているのでね。で、君の仕事はいつ始めるね? 私はいつでも構わんが」
「今すぐです」
ぴしゃりと言い放つ女記者に向けて学者は小さくうなずき、記者と助手の向かいのソファに腰を下ろす。
「助かるよ。雑談というものはどうも苦手なんだ」
「貴方は当社の取材を受ける代わりに、何か一つ『条件』を出された、と聞きました。でも、肝心の条件の詳細は取材当日までは明かせないというのは、いささか筋が通らないのではありませんか?」
女記者の怜悧な詰め寄り方に、隣の助手は生きた心地がしなかった。この学者は間違いなく世界中に多大な影響力を持つ人物であり、零細出版社の雑誌記者風情が対等に口を利ける相手ではないはずだった。
学者は特に感情を害された様子もなく、物珍しそうな表情で女記者に返した。
「君は乗り気では無いのかな? 私の記事を書きたがっている連中は、世界中に山ほどいると思ったが」
「何事にも例外はあるでしょう。今日、私がここに来たのは社の命令であって、私個人の意志ではありません。言わせていただくなら、貴方ほどの有名人がわざわざ私を指名した理由も不可解です」
女記者のきっぱりとした物言いに、学者はまばたきを二、三度してから得心したように小さくうなずいた。
「なるほど。では、『条件』について説明しよう」
学者はソファにもたれかかり肘掛けに両腕を載せた。彼は組み合わせた両手を胸の前に置き、リラックスした体勢で言葉を継いだ。
「私はかつて一人の人間を殺した。君にその告白を聞いてもらいたい。それが取材を受ける『条件』だ」
助手がごくりと唾を飲む。
女記者は射抜くような視線を学者に注いだ。
3
それは三十年ほど前、私がまだ駆け出しの研究者だった頃の話だ。
当時の私のテーマは、ある特殊な力場が時空間に及ぼす干渉効果を実証することだった。研究は順調に進んでいた。師や仲間にも恵まれていたからね。意外に思われるかもしれんが、恋人もいたのだよ……失礼、脇道にそれたな。
とにかく私は寝食も忘れて研究に打ち込んでいた。
そしてある日、『それ』は起きた。その夜の事は今でも忘れられない。既にいくつかの実績を上げていた私は、大学の実験棟の一角をほぼ独占できていた。その日は徹夜で実験設備のメンテナンスを行っていた。
設備の詳細を語ることに意味はないだろう。安いSF映画で描かれるような、マッドサイエンティストが操る怪しげな実験機械を想像してくれていい。そういう『モノ』だと思ってくれればいい。
とにかくその時間、研究仲間は皆帰宅し、残っているのは私だけだった。
壁にかかった時計はすでに午前二時を回っている。各機器の動作チェックは滞り無く進み、最後の段階に進んでいた。
ふと私の脳裏に閃く物があった。それはここ数ヶ月私を悩ませていた実験上の問題を解決できるかも知れない、魅力的な着想だった。居ても立ってもいられなくなった私は、その思いつきを目の前の設備で試そうと思った。
大した手間ではなかった。普段使用している実験手順の一部を修正し、機器のパラメータを少しばかり上下させるだけの物だった。なぜ今までこれに気づかなかったのか、私は過去の自分をあざ笑うように作業を進めていった。
心の中で舌なめずりをしながら、私は機器の電源を入れた。制御卓の前に座り、モニタ上のグラフを眺めながら、自分のアイデアの正しさを確認していた。結果と自分の能力に十分満足した私は、設備の電源を落として仮眠を取ろうと思い始めていた。
その時、不意にその気配に気づいた。
私が座る椅子の背後の白い壁。
そこに『穴』がぽっかりと口を開けていた。
直径は二メートルほどだったろう。穴の内壁は黒く滑らかな面を見せており、私がいる場所から穴の奥は数メートル先までしか見通すことができなかった。その先は完全な闇に沈んでいる。
私は、はっと実験設備のモニタに目を戻した。そこに現れている数字はかつて見たことのないほどの異常な状況を告げる物だった。無意識に頭脳を回転させ、この現象を引き起こしうるプロセスについて思いを巡らす。
どうにも上手く考えがまとまらなかったが、この穴を開けたのは今ここで動作している実験設備であることは直感的に理解できた。これは人類史上に残る偉業だと思った。
その時の私は本当にどうかしていたのだろう。私は吸い寄せられるように穴に近付いた。
ゆっくりと穴の中に手を伸ばす。壁に開いた穴は何の抵抗もなく私を受け入れた。そして、その先にある闇もまた私を誘っているように思えた。私は震える手で机の引き出しから懐中電灯を探し出した。
そして私は穴の中へ足を踏み入れた。
冷やりとした空気が漂うトンネルを一歩、また一歩と前に進む。恐怖は無かった。不思議なことに、懐中電灯の光は数十センチほど先までしか照らしだすことが出来なかった。それでも、その時の私にとってはかけがえの無い光だった。
闇の中をどれくらい歩いただろうか。心の中に、忘れていた不安という言葉が芽吹き出すのを感じた。ようやく客観的な思考を取り戻しかけた私は一旦戻ろうかと足を止め、体をくるりと振り返らせた。
その瞬間、全身が総毛立つような感覚に襲われた。
闇の奥に何かが『いる』。
気配がすぐそこまで迫っている。息遣い、衣擦れ、足音、匂い。何かが自分の背後の闇の中にいる。
考えている暇は無かった。私は懐中電灯を握りしめ、渾身の力でそれを背後の気配に向かって振り回した。手応えがあったと感じた瞬間、懐中電灯の光が消えた。さらに悪いことに、その気配はひるむどころか唸るような声を上げて私に掴みかかってきた。
視界を奪われた闇の中で、私の恐怖は頂点に達した。
無我夢中だった。闇の中でその謎の存在と掴み合い、盲滅法に殴り合い、蹴りつける。暴れる中たまたま手が触れた物が何なのかもよく分からないまま、それをがっちりと押さえて壁や床に叩きつける。
数秒間の事だったようにも思えるし、一時間ほども組み合っていたようにも思えた。
いつしか、その気配は消えていた。正確には動きだす気配が消えていたと言うべきだろう。
暗闇の中でしかとは分からなかったが、私は恐らく『それ』に馬乗りになっているはずだった。手触りはあった。だが、それはぴくりとも動くことが無かった。
ズボンのポケットにライターがあることを思い出した。私は、『それ』の上にまたがったまま、ライターを取り出して火をつけた。目の前がぼんやりと照らし出された。
私は男の上に馬乗りになっていた。その男の頭はあらぬ方向にねじ曲げられ、嘔吐物が口元や衣服の一部を汚している。
一目で死んでいるのが分かった。
男の顔は断末魔の苦痛に歪んでいたが、確かに見覚えがあった。
私が馬乗りになっている死体は『私』自身だった。
4
「その先はよく覚えていない。とにかく必死でその場から逃げ出していた。実験設備の電源を無我夢中で落とした途端、穴はあっさりと消滅した」
学者は紅茶をゆっくりとすする。カップを置いた彼が、女記者と助手の反応を眺めながら言葉を継いだ。
「穴を生み出す現象を再現する気にはなれなかった。というか、実験データや理論的な考察を突き合わせてみたが、あの穴は極めて低い確率によって偶然生み出され、『平行世界』とでも呼ぶべきものに繋がったのだと結論せざるを得なかった。残念だったが、ほっとしたのも確かだった」
ソファにゆったりを体を沈め、学者はにやりと微笑を浮かべる。
「そしてその時のデータを元にして、私は自分の研究を飛躍的に発展させた。その後のことは君たちも知っている通りだ。エネルギー革命は世界の多くの問題を軽減し、人類の生活は格段に安定し繁栄の一途を辿っている。そしていまやその版図は木星圏まで広がりつつある」
学者は肩をすくめると、挑戦的な顔で女記者を見た。
「私を告発するかね? 私が『私』を殺した罪を裁く法律は存在するのかね? これは被害者すら存在しない『完全犯罪』だ」
沈黙が流れた。助手は耐え難い空気にもぞもぞとソファの上で座り直す。
女記者は落ち着いた物腰でカップを持ち上げた。彼女は紅茶に口をつけて、小さく息をつく。学者を見つめて、彼女は冷静な口調で言った。
「今のお話には省略された点があるように思います」
学者の眉がぴくりと上がる。女記者はカップをゆっくりとテーブルに置き、言葉を続けた。
「その殺人現場から逃げ出す時に、貴方はこう考えたはずです」
彼女は足を組み、膝の上で両手の指を絡ませた。
「『自分が帰るべき世界はこのトンネルのどちら側だろう?』と」
学者は唇を結んだまま、彼女の言葉の続きに耳を傾けた。
「完全な暗闇の中で揉み合いつつ上になり下になる内に、貴方は自分がトンネルの『どちらの方向から』歩いてきたのか分からなくなったはずです」
女記者の視線に哀れむような色が混じった。学者は深くため息をつくと、記憶を丁寧に取り出すようにゆっくりと語りだした。
「この三十年、常に周囲を注意深く観察してきた。だが、この世界が自分が元いた世界なのかどうか、その確信を持つことは結局できなかった」
膝の上で組んだ彼の両手に力が込められる。学者の言葉は続いた。
「自分が別の『平行世界』から迷い込んだ異邦人かもしれない、という疑念は常に私を悩ませ、強烈な孤独感を心に刻み込んだ。周りの人間が全て異物に思えた……いや、違うな。異物は私の方だ」
ソファの上で学者の体がほんの少し小さくなったように見えた。黙考するように目を閉じていた女記者が口を開く。
「私は父親の名前を知らずに育ちました。母が私を身籠ったのは大学在学中のことでした。父親も同じ大学の関係者だったそうです。母の妊娠を知った父親は、金銭的な援助だけを約束し、それ以外は母との関係を完全に絶ちました。今、その理由がようやく分かりました」
「そうだ。私は、君の『父親』を殺した男かも知れないのだよ」
助手が呆然とした表情で学者と女記者を見比べた。しばらく逡巡するように視線を巡らせた学者が、絞りだすように声を出した。
「……お母さん、入院されたと聞いたが」
「はい。病状はかなり進行しています。もう長くないでしょう。一度、会いに来てはもらえないでしょうか。きっと喜ぶと思います」
学者はゆっくりと立ち上がり、窓際へと歩み寄った。ガラス越しに遠方の海を見つめる瞳は、絶望と諦観で塗りつぶされている。
「私は許されないことをした」
女記者もソファから腰を上げ、学者の背後に進んだ。
「だからといって、全てを投げ捨てる理由にはならないはずです」
その二人を見ていた助手が、意を決して後ろから声をかける。
「あの……写真を撮っても?」
女記者が、学者の手を包み込むようにそっと掴んだ。学者はその温もりを確かめるように握り返し、助手に向かって小さくうなずいた。
孤独な者など、この世界のどこにもいなかった。