泥に沈む足
「え!?どうして鍵掛けるんですか…!?」
(チッ……変に注意力のある奴だな)
さりげなく立ち上がってドアの鍵を掛けたつもりだったのだが、ばれてしまった。
この女に中途半端に話して逃げられると困る。非常に困る。
「ちょっと長くなるけど、落ち着いて聞いて欲しい事がある。落ち着いて、ね。」
「…はい」
取り敢えず逃げ出す気配は無いようだ。俺もテーブルを挟んで反対側に座り、封筒の中の資料を取り出しながら話し始めた。
「まず冷静に受け止めて欲しいんだけど、アガレスコーポレーションは冠婚葬祭とかをやってる会社じゃない。と言うかまともな会社ですらない」
「…じゃ、じゃあ職務内容は、具体的には何を…」
「うーん…。まあ、端的に言うと――ちょっと表立っては言えない様な仕事」
「だから具体的には――」
そこまで言いかけて何かに気付き、女は黙った。
俺は資料に目を落とし、無機質な声で言う。
「まあ、察してよ」
「………」
直接見ていなくても、女が今どんな顔をしているのかは十分解った。
どんな気持ちでいるのかも大体想像が付く。
焦りと放心と、動揺と逃避と。諦念も入っているかもしれない。
そして結果的に頭が働かず、何も考えられていない筈だ。普通の人間ならそうなる。
しかし、女の口から出てきた言葉はそういった俺の予想を覆す言葉だった。
「解りました」
「…は?」
「佐藤さんの仰った事は一応理解出来ました。要するに私はどうしようもない位まともじゃない会社に入社しちゃったって事ですよね。」
「え、うん、まあそうなんだけど…。」
「じゃあもうしょうがないです。悩んだって始まらないし、転職しようにも行く当ても無いし、まさか『殺人しろ』なんて言われないでしょ? 私普通車免許と大型特殊免許しか持ってないんで」
(…何か…こいつ変だ)
新しい「アルファ」に選ばれるだけあって、度胸は据わっているのかも知れない。
やはり、普通の女とは違う何かを感じた。
(…さっさと説明して指示出して帰宅させよう)
改めて女の方を向き、俺は静かに話し始めた。
「あなたには、ある家に行ってもらいたい。ここから車で十五分ほどの住宅街に、『金田和樹』って表札の付いた一軒家があって、その向かいの家は今は空き家になってる。今からその家に行って、玄関の横に置いてあるダンボール箱を家の中に運び込んでおいて欲しい」
そう言った途端、女が一瞬顔を強張らせたが、すぐに元の怪訝そうな表情に戻った。
「…空き家にダンボールを運び込むんですか?引越しの手伝い、って事ですか…?」
「いや、そうじゃない。そこは『空き家であって空き家じゃない』んだ。今日の夜から人がそこに潜伏して、今言った金田和樹氏の家を監視する。その為の荷物だ。」
「監視……」
女の目が疑いの色を強くする。やはりこれだけの情報で納得してもらうのは無理なようだ。
小さく溜息を吐き、追加の情報を与える。
「…金子和樹氏は、その……、六日前に殺されたんだ。西の方に通ってる国道の上の歩道橋で。彼はアガレスコーポレーションがまあ…、いろいろと目を付けてた人物なんだけど、その関係で監視が要るようになってね」
「どうして死んだ人の監視を?」
「監視対象は勿論彼じゃない。
彼には家族がいたんだ。妻と一人娘が。だけど六日前から消息が分からなくなってて、アガレスの方でも探す事になったんだよ。家にひょっこり帰ってくることもあるかもしれないだろ?だから、向かいの家を借りてるんだ」
そこまで説明すると、女はようやく納得してくれた様だ。これ以上は言えない。
「じゃあ、早速行ってくれるかな。荷物を入れたら帰ってくれていいよ。はい、これ合鍵」
「はい!行って来ます!」
機敏な動きで玄関のドアを開けようとする女だったが、ふと何かに気付いたように動きを止め、こちらを向く。
「あの…、まだ自己紹介してませんでしたよね?」
「え?…ああ、別にいいよ、資料は貰ってるし。」
「それでもさせて下さい!今気合入ってるんで!」
目を輝かせている女に苦笑し、俺は姿勢を正した。
「じゃ、どうぞ」
「はい!この度ここで働かせていただく事になりました鈴木凛子です!!
至らぬ点も多々あるかと思いますが、よろしくお願いします!!」
スーツの女――鈴木凛子は大声でそう言うと、一礼して部屋を出て行った。
傍目には、初仕事で気分が高揚している様に見えた。
あくまで純粋で、真面目で、活力に満ち溢れて。
俺は資料にもう一度目を落とし、彼女に見せていなかった――正確には、彼女に見せる訳にはいかなかった、資料の最後の一枚を取り出した。
(………ああ、面倒くせえ)
口の中でそう、呟く。