プロローグ
午後十一時を少し回った頃、生暖かく、ごくゆったりとした風が頬を通り過ぎた。
目を閉じて、軽く息を吸う。
三月の下旬になると、この地域は少し春めいてくる。
もうそろそろテレビではお花見の特集が組まれ、コンビニには酒だのお徳用のつまみパックだのが売り出される季節だ。
「アハハハ、ちょっと、飲み過ぎだって!!」
「うおっ、何か男が脱ぎだしたぞー!」
緑色のフェンスを挟んで反対側、小さめの公園の芝生の上で数人が騒いでいた。
御多分に漏れず、夜桜見物をしているらしい。暢気な事だ。
まだ桜の花は五分咲き程度の所を見るに、何か理由をつけて酒を飲みたいだけなのかも知れないが。
「ふー…」
嬌声を聞き流しながら二、三回軽くジャンプして筋肉をほぐす。
右側の道路を挟んで反対側の歩道に、人影が見える。少し猫背で、歩道橋の階段を登り始めた。
階段の丁度中間地点の踊り場にその人影が差し掛かった事を確認し、自分も目の前にある歩道橋を上り始めた。
パーカーのフードを被り、右ポケットからイヤホンを取り出し耳に押し込む。
その格好で小走りすれば、一見自分は健康の為夜にジョギングしている一般人に見える筈だ。
但し、イヤホンからは何の音も聞こえてこない。自分の目的を果たす為には、雑音は邪魔以外の何者でもなかったからだ。
歩道橋の階段を登りきると、丁度反対側の人影がこちらに向かって歩いてきていた。
小走りのまま、右ポケットの中に手を突っ込む。同時に、脳内で「どの地点ですれ違う事になるか」をシミュレーションし始める。
歩道橋の上部通路には二箇所に街灯が設置されており、煌々と夜の闇に穴を開けている。
その地点ですれ違ってしまうのは避けなければならない。目的達成の為、絶対に。
人影との距離が後十メートル程になった時、自分は通路の右側を走り始める。
案の定、人影はこちらの気遣いを意識し、左側に寄った。
二箇所の街灯の光が丁度当たらない歩道橋の中間地点で、遂に二人の人間は交錯する。
そして――猫背の人影はそのまま一歩踏み出し、
フードを被った人影は、今すれ違った人間の後ろ髪を左手で鷲掴みにした。
「えっ」
それが、猫背の人影が発した最後の言葉だった。
何故なら、その後頭部、掴まれた髪の少し下には安物の果物ナイフが刺さっていたからだ。
頭蓋骨の無い柔らかい部分から、脳味噌目がけて下から上に。
「ふー…」
息を吐いて、肩の力を抜く。
ぐったりとした死体を左手一本で持っているのは辛い。自分は果物ナイフを捻ってから抜き、後頭部の毛をそのナイフで雑に刈り取った。
死体がドサッと倒れ込むのを尻目に、自分は左手で掴んだままの髪を歩道橋の上からばら撒いた。
丁度やってきたトラックの風を受けて黒い髪の毛は舞い散り、闇に消えていった。
こうして、人が一人死んだ。