夜の雀
春に香る花を連れた風になれるとするならば
どれだけ安楽なものだろうか・・・
ただ己が志のみを信じ、ただ主の忠義を誓わんがために・・・−。
安土桃山・室町時代、別名戦国時代と言われている乱世。
人は戦わずしては留まれず、時代に嵐が来ぬならば変化は無い。
無秩序な世に立つ背は陽炎のように脆く、疎い。
三河の国、徳川家康が君主、徳川四天王の一人榊原康政。
彼が考える乱世とは常に変化を遂げる果てない何かを追い求めていた。
松平元康から徳川と笛字を変え、
名前も家康と元服名を正した徳川家康は、今この時期が重要とされている時。
康政は今、山城と河内の国境、大坂へ向かう道中。
家康が身体を休めている陣屋から少し離れた小さな竹林の中で小さな溜息を含め下を見る。
「殿に忠義を尽くすことには迷いはござらん、それで良いのだ」
康政は一人そう呟くなり、地面の裏側を見返した。
それが当たり前な時代。
それ故に、だからこそ、康政は時折そんなことが頭を制する、
分かってはいるのだ。武士らしからぬ思考、得体の知れない憤り。
彼は三河上野郷に生まれ小姓として家康公に仕えて、
19で元服をむかえ、従五位下式部大輔まで官を上げてきた。
そんな彼が、時折思うことがあった。
「康政公・・・?」
突然後方から発した声に少々驚き、ゆっくりと振り向く。
「やはり康政公でござったか、しかしながらどうされたのだ、こんな夜半に」
そこには同じく徳川四天王と呼ばれている井伊直政が立っていた。
「直政どの、ちと思い留まることがありましてな」
「ほう、戦場に立つ度に「無」の旗を掲げ、
決して迷いの無い戦ぶりを見せる康政殿にも、迷患いござるとはな」
直政は意外だというように、腕を組み、興味深そうに目を見開く。
「この世に悩なぬ人などどこにもおらぬよ」
康政は眉を少し歪めて困ったように顔を緩めた。
「康政公は考えが深く、その都度まことに脱帽をしております」
直政は腕をほどき感心をするように首を大きく頷かせて見せる。
「考えが深いのならばとてもこのような悩みや弱みをを人には見せぬものだ」
自分よりもはるかに若い直政に対して、
彼はつい息子に話しかけるような口調になってしまう。
「直政どのは、戦に出、仇を討つ際にどんな事を思われる…」
少しの間を空けたあと、康政は軽い話をするような口調で問いかけた。
「それはもちろん「無」でござるよ、生きるか否かなどは
思い悩んでも杞憂なこと、無駄な事を考えていればその迷いが命取りになりまする」
直政は少し口を上げてその質問には真顔で答える。
その口調に何の迷いも感じられぬほどの気迫を、康政は感じた。
背筋が伸びるような、鋭く落ち着いた声に驚き、そしてにわかに頷いた。
「直政どのは大した御仁だ、その言葉を某は望んでいたのかもしれん」
竹やぶの中から鳥の声が微かに聞こえる。
話し込んでいたら、いつの間にやら朝が間近になってきたらしい。
「武士が思い悩む事といえば、主君のこと、戦場のこと、妻のこと、その他などない、
康政公ならば殿に対する忠義は確かなもの、妻のことはお辻殿のことではござらんか?」
お辻とは康政の側室で、不運なことで命を落としたとされる人物だ。
康政はこのお辻の死を悼み、甲斐の国のつつじで名の知れた土地に、お辻を弔った。
「康政公、どんな悩みにも今のように明けがくるもの、来ないことがあるとすれば
それは己の手が、気の迷いが陽を拒んでいるのではないか」
直政はいづれ出るであろう、朝日に目をやり口を開いた。
それを聞いていた康政は大きく伸びをし、
「直政どののお陰で答えを掴めた、大した御仁だ、助かり申した」
と直政に向かい目を細めて礼を言うと、
「皆が起きる前に一眠りをする」
と言い歩き始め、後ろ姿で手を振った。
直政はそれをまた笑顔で受け取ると、己も欠伸を一つして、
真似たように後ろ姿で朝日に向かって手を振った。
榊原康政公という人物を知ってもらいたく思い執筆をしました。
時代は違えど、人の悩みや不安は、根本的に同じような気がします。
読んでいただいた方も、途中で飽きてしまった方も、
ありがとうございました。