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彼専用の【秘密のエレベーター】を抜けると、そこにいるのは別人だった。

幼稚園教諭「アヒル先生」には誰にも言えない秘密がある。




エプロン姿の青年が、


コンビニ奥の専用エレベーターを抜けると


そこにいるのは別人だった。




【秘密のエレベーター】




子どもたちの笑い声が、白い柵を越えて風に乗る。




誰かがクレヨンを置く。


絵本をめくる音が止まる。


陽射しを受けた園庭は、眩しいほど緑だった。




その脇を一人の青年が走っていく。




白いTシャツに、袖なしのパーカー。


白いエプロンを揺らしながら、歩道を駆け抜ける。


背中には黒いリュック。


タッ


タッ


タッ


長い脚が一定のリズムでアスファルトを蹴るたび、リュックが小さく揺れた。




汗ばむ額をさっと左手の甲でぬぐい、


青年は腕時計に目をやった。


白いスニーカーの歩幅がさらに速くなる。




幼稚園の白い柵が後ろに流れていく。


風に揺れる髪、後ろ姿がどんどん小さくなる。




彼は走りながらエプロンを外し、くしゃっと丸める。


そのまま後ろ手にリュックへ押し込んだ。




リズミカルな歩幅は止まらない。




駅の改札を抜け、黄色いアヒルのケースに入ったスマホをかざす。


短い電子音。


ピッ。




ホームへ降りる階段を駆け下り、滑り込むように電車へ飛び乗る。


ぷしゅーーー。


扉が閉まる。




青年はつり革をつかみ、大きく息を吐いた。


肩が大きく上下する。


「ふう」




電車が動き出す。


窓ガラスに映る自分へ視線をさっと下げ


左腕を持ち上げ手首のタグホイヤーを見る。


「ちっ」


小さくため息。




流れていく景色。


目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。




三駅先。


電車が止まる。


開くドアももどかしく、体を斜めにし、


肩からすりぬけるように地下鉄を降りる。


行き交う人の流れを抜けて、地上へ出る。


視界が一気に開けた。




ガラス張りの高層ビル群。


汐留の空を映している。


青年はその中の一棟へ向かって迷わず走る。




巨大ビルの1階にあるコンビニのドアが開く。


お菓子、雑貨の棚の間をすり抜け


あっけにとられる店員をよそに店の奥へと進む。


飲み物の棚を横切る。




なじみの店長に軽く手を上げて微笑み


奥の出口に消えていく。


まぶしい店内から一瞬、暗さに目を凝らす。




さらに奥へ進み、関係者専用通路を抜ける。


突き当たりの扉の先。


ひっそりと一基のエレベーターが待っていた。




「ふう」


息を整えながらスマホをかざす。


カコン。


青年が乗り込む。


彼がゆっくりと振り向くと同時に。


静かに巨大エレベーターの扉が閉じた。






こげ茶色の木目を模したエレベーターの室内。


濡れたように光るエナメルの靴。


濃い緑青がかったスーツ、


薄い光沢のあるワイシャツ、


織地の美しいネクタイの結び目を整える。


あごから美しく伸びた首に沿うよう、きゅっと一度。




全て違う質感の黒が、彼の細く長いシルエットを引き立たせる。


乱れた前髪を治す指先。




エレベーターはぐんぐん上昇し、数字が次々と変わっていく。


カチャ。


タグホイヤーを外し、ケースから金色のピアジェを取り出す。


針を一瞥し、手首に合わせる。


人差し指のリングの感触を右手で確かめると同時に


60階に到着を告げる音が鳴った。


チン。




彼の表情はまだ見えない。


扉が開く。


ゆっくりと顔を上げる。




まぶしい光が差す広いフロア。


両側に整列する社員たち。


張り詰めた空気。


青年が一歩踏み出すと同時に


全員が一斉に頭を下げた。


「社長、お待ちしておりました」




青年は軽く頷く。


閉じたまぶたをゆっくりと開く。




大きな二重の目が睨む先。


横顔の後ろにかすむ東京の空。




彼の名は――浅倉凌。


巨大企業を率いる若きCEO。


そして-------。




【曇天の会議室】




カツ


カツ


カツ


磨き上げられた廊下に革靴の音が響く。




黒いスーツ。


黒いシャツ。

黒いネクタイ。




浅倉凌は眼下を一瞥した。


床から天井まで続くガラスの向こうに、東京の街が広がっている。


「ふ」


声にならないかすかな風音が浅倉の肩に漏れる。




窓の外。


東京湾。


昨夜の画面の文字が頭をよぎる。


「ASⅢビルディング計画」


「資金調達」


「極秘」




浅倉は秘書の立ち並ぶ通路をゆっくりと進む。


緊張した面持ちの秘書たちが一瞬かたまる。


息をのんで礼をする。


彼は視線だけで応えた。




そのまま扉へ向かう。


ガチャ。


会議室の扉が開く。




中では数人の役員が同時に話していた。


「着工日はもう決まっているんです」


「今さら延期なんて――」




「いや、それより資金が――」


声が途切れる。




一人。


また一人。


視線が入口へ集まった。




黒いスーツの男がそのまま会議室へ入ってくる。


誰も立ち上がれない。


誰一人として口を開かない。


喉が鳴る。


誰かが視線を逸らす。




浅倉は無言のまま長机の横を通り過ぎ、一番奥の巨大な椅子を静かに引いた。


見た目の若さに似合わずゆっくりと腰を下ろす。




テーブルの上で指を組むとようやく口を開いた。


「続けてください」


低い声だった。




誰かがペンを置く。


キーボードをたたく音が止まる。


役員たちが顔を見合わせる。




巨大モニターにはASⅢビルの完成予想図。


その横には資金計画表。


赤い数字が並んでいた。


「資金手当てが間に合いません」


誰かが言う。




「どういうことだ」


「着工日は決まっているぞ」


「現場にはもう重機も入っている」


「オーストラリア案件の影響か」


ざわつく声。




浅倉は黙ったまま画面を見ている。


視線だけが数字を追っていた。




やがて右手がわずかに上がる。


それだけで会議室が静まった。




「中松財務部長」


名前を呼ばれた男の肩が跳ねる。


「ご説明いただけますか」




中松が立ち上がる。


椅子の脚が床を擦った。




額には汗。


ネクタイを直そうとした指がうまく動かない。




秘書席。


ノートパソコンを操作していた坂下が画面を切り替える。


カチ。


モニターに新しい資料が映る。




銀行融資。


投資ファンド。


資金調達実績。




棒グラフが右肩上がりに伸びている。


「ご覧の通り、調達そのものは順調に――」


「結論は」


浅倉が遮った。




中松の言葉が止まる。


「……はい」


「当てにしていた資金」


「入らなかったのではありません」


返事はない。




「入れなかった」


浅倉は資料から目を離さない。




「M&A案件で確保した資金」


静かな声。


「帳簿と合いません。」


トン、


トン、


トン


静かに浅倉の指先が、デスクに小さな音を立てる。




「……どこへ移しましたか」


「止める機会は、あったはずです。」


「監査報告は読みました。」


会議室の空気が揺れた。


役員たちが顔を見合わせる。




「あの投資案件か……」


誰かが小さく呟く。




中松が頭を下げた。


深く。


深く。


「……私の責任です。」


沈黙。




モニターの光が汗を照らしている。




誰も何も言わない。




浅倉だけが中松を見ていた。


数秒。


会議室の誰も動かなかった。




「この件は」


低い声が響く。




「あなたに責任を取っていただきます」


中松の指が震えた。




「本日付で」


浅倉はモニターを見つめたまま言葉を発した。


「あなたの席はなくなると思ってください」




息を飲む音。


誰も動かない。


誰も言葉を発しない。


大型モニターの光だけが会議室を白く照らしていた。




窓際に置かれたカラーの葉が、空調の風でわずかに揺れる。


その向こう。


浅倉凌は、すでに次の資料へ視線を落としていた。




【胃薬とOS−1】




地下駐車場。


黒塗りのセダンが静かに待機している。


駐車場の出入り口に走り込んできた坂下が、後部座席のドアを開ける。




浅倉が乗り込む。


無言。


ドアを閉める。




坂下も助手席へ滑り込んだ。


車がゆっくりと動き出す。


「ふぅ……」




坂下が天井を見上げ


わさ、


わさ、


わさっ


背広のポケットを探る。




白いプラスチックボトルを探し当て、カラカラと胃薬を二粒振り出した。


「またですか」


前を向いたまま水沢が言う。


「ですよ」


「もう本当、やめてくださいよ……」


坂下がうんざりしたように窓の外を見ながら涙目でつぶやいた。




水。


水は――


ぽすっ。


何かが肩に当たった。


振り返る。


OS-1。


後部座席。


浅倉はすでにタブレット端末を見ている。


「今日はこれ飲んどけ」


視線は画面のまま。


指だけが動く。




「わかってるなら、あんな言い方しないでくださいよ」


坂下がキャップを開ける。


「中松さん、更迭です」




一瞬水沢の指がハンドルの上で止まった。


「ああ……」


わずかに唇から漏れる声。




背後から坂下の後ろ姿に、あごをわずかにしゃくる。


水沢がバックミラー越しに、その浅倉の鋭い目をとらえる。


背中の視線に気づかない坂下。




OS-1でごくごくと胃薬を流し込みながらスマホを開く。


「うわ、まずっ」




「えーっと、次は……」


親指が画面を滑る。


「入社式、その後が――」


スクロール。


「取材で、その後が――」


またスクロール。




「うわ、今日なんでしたっけこれ」


水沢がちらりと横を見る。




「味がまずく感じるのは、ミネラルが足りてる証拠です」




「足りないのは」


言いながら顎だけで前を示した。




坂下が「あっ」と少しうれしそうな顔をして


ダッシュボードを開ける。


忘れていたタブレット。


今日のスケジュールの一覧。


思わず水沢の横顔を拝む。




坂下が肩の力を抜く。


「さすが水沢さーん」




後部座席から浅倉が口を開く。


「最初からそっち見ろ」


「忘れてました」


「だから胃が痛くなる」


「関係ないです」


子供のようにふくれっ面をした坂下が即答した。




水沢がちらりとルームミラーを見る。


浅倉がふっと表情をゆるめ、軽く目配せする。




車は都心の奥へ向かって滑るように走り続けた。




【500名の入社式】




都心。


一流ホテル。


車寄せ。


黒塗りのセダンが静かに停車する。




制服姿のホテルマンが駆け寄る。


坂下が先に降りる。




後部座席のドアが開き、長い脚と黒光りしたエナメルの靴先が横顔をより際立たせている。


浅倉はゆっくりと車を降りた。




ホテルマンが一礼すると同時に自動ドアが開く。


浅倉は軽くうなずき、追うように坂下がその半歩後ろに足を速めた。


二人の姿がホテルのロビーへ吸い込まれていく。




大宴会場では五百人を超える新入社員が集う入社式が行われていた。


期待と緊張でざわめいている。




「社長ってどんな人なんだろう」


「六十代くらい?」


「いや、もっと若いって聞いた」


「テレビ出ないらしいぞ」




壇上のスクリーンには浅倉ホールディングスのロゴ。


文系も理系も憧れる人気企業。




難関を突破した新入社員たちの顔が輝いていた。


自分たちは選ばれた人間。


そして。




その頂点に立つ社長。


誰もが入口を見つめている。


やがて。




会場後方の扉が静かに開くと同時にざわめきが止まる。


全員の視線が一斉に集まった。

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