第五話「葛藤」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおり
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【02】ゆめ
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【03】ななみ・リリカ
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【04】ユウリ・セシリア
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【05】ステラ
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【06】リナ・ミナ
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【07】レイナ
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【08】カレン
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「手放す」
カレンの声は低かった。けれど、その一言は廃墟の冷気より重く、誰の胸にも沈んだ。
次の瞬間、答えを待つ暇もなく、廃墟の底で「根源」が脈打った。
ドクン、と世界の裏側を叩くような鼓動が走る。
床も壁も揺れてはいない。
ただ、魂の境界だけが乱暴に掴まれ、引き剥がされそうになる。
息を吸うだけで、自分の輪郭が薄れていくようだった。
いおりの背で、大剣フェスティナレンテが灼けるように熱を持った。
柄を包む革越しに、心臓のような脈動が伝わってくる。
左手の六本目の指へ、濁流めいた記憶が逆流した。
――これだ。
いおりは息を呑む。
この剣は武器ではない。自分が失くした「過去」そのものだ。
これを握っている限り、自分は過去に守られ、同時に縛られ続ける。
綻びを閉じるための「今」は、きっとこの手には入らない。
ユウリの腰の短剣ヴィエントも、鋭い銀光を返した。
眼帯の奥に埋もれた結晶痕が疼き、耳の奥にステラの笑い声が蘇る。
愛して、すがって、手放せなかったもの。
その重みが見えない鎖となって、足首に絡みつく。
ミナの掌には、逃げ場のない熱が溜まっていた。
与えることでしか赦されないと思い込んできた心が、根源の圧力に押し返され、今度は内側から彼女自身を焼こうとしている。
ななみの情報端末は、唐突に白く反転した。
エラーコードすら出ない。
数値も警告も沈黙したまま、ただ空白だけが光っている。
管理し、記録し、確証を得ることで自分を保ってきた彼女の矜持を、根源は「不要なノイズ」とでも言うように退けていた。
誰もが悟る。
自分の手の中にあるものは、この世界の綻びを繋ぐ最後の楔であり、同時に、自分をここへ縫い止めてきた執着でもあるのだと。
◇
いおりはフェスティナレンテの柄に触れたまま、指を離せずにいた。
革の擦り切れた感触。
触れた瞬間にだけ立ち上がる、懐かしい温度。
名前も知らない誰かと笑った午後。
守りたかった誰かの体温。
記憶を失った自分にとって、この剣に宿る「体の記憶」だけが、自分をいおりとして世界につなぎ止めてくれる唯一の錨だった。
これを手放せば、また空っぽになるのではないか。
今度こそ、自分の中に何も残らなくなるのではないか。
「怖いの?」
隣から、ゆめの静かな声が届いた。
いおりは反射的に振り向く。
「ゆめ、大丈夫なの?」
ゆめの顔色はまだ白い。
輪郭も、ほんのわずかに不安定なままだ。
それでも彼女は頷かなかった。
心配を受け取る代わりに、まっすぐ問い返す。
「私のことは、あとでいい。……手放すのが、怖いの?」
逃げられない問いだった。
いおりは唇を噛み、それから小さく息を吐く。
「……怖いよ」
声は思ったより弱かった。
「これを手放したら、この中にある懐かしいものまで、全部どこかへ行っちゃう気がして。私、また何もない私に戻るんじゃないかって……」
ゆめはしばらく黙って、いおりの横顔を見ていた。
その琥珀色の瞳に迷いはなかった。
「消えないよ」
いおりが目を上げる。
「いおりが忘れても、私が覚えてる」
ゆめは一語ずつ、確かめるように言った。
「いおりの中にあったもの、いおりが大事にしてきたもの、全部。私も一緒に持ってる。だから、なくならない」
かつて誰かの記憶を糧にしていた影の響きではなかった。
寄り添うために言う慰めでもない。
それは、自分の足で立つひとりの少女の断言だった。
「……でも」
いおりの喉が震える。
「もし、私が本当に忘れたら」
「その時は、私が何度でも話す」
ゆめはすぐに答えた。
「いおりがどんな顔で笑ってたかも、誰を守ろうとしてたかも、全部。だから、ひとりで怖がらなくていい」
その言葉が、胸の奥で暴れていた不安に静かに触れた。
剣を失う恐怖は消えない。
けれど、失ってもなお残るものがあるのかもしれないと、初めて思えた。
いおりは柄から手を離さないまま、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとう、ゆめ」
ゆめは小さく頷く。
「うん。だから、ちゃんと選んで。怖くないふりじゃなくて、怖いまま」
◇
ユウリはヴィエントの柄を強く握りしめていた。
指先が白くなるほど力を込めても、震えは止まらない。
この短剣は、ステラの型をなぞらせてくれた。
忘れたくないものを、確かな形として自分の手に残してくれた。
だからこそ、これを手放すことは、ステラとの最後の接点を自分から断ち切ることに等しかった。
その時、視界の端でセシリアの膝が崩れた。
「……セシリアさん!」
ユウリははじかれたように駆け寄る。
セシリアの顔は、先ほどよりさらに蒼白だった。
根源に近づいたことで、かつてアムネシアに閉じ込められた少女たちの「なぜ」「帰りたかった」という叫びが、管理者だった彼女へ集中的に流れ込んでいるのだ。
「平気です……少し、意識が」
セシリアは震える手首を押さえ、無理に立ち上がろうとした。
「進みましょう。私に構う必要は――」
「どうしてですか」
ユウリの声が、その言葉を切った。
セシリアが動きを止める。
「どうして、そこで抵抗しないんですか」
低い声だった。だが、刃のように鋭かった。
「苦しいなら苦しいと言ってください。助けを求めてください。なのに、どうしてあなたは、平然と壊れる方を選ぶんですか」
セシリアはわずかに目を見開き、やがて伏せる。
「……抵抗する理由が、ありません。これは私が受けるべきものですから」
贖罪。
彼女が何度も口にしてきたその言葉は、今や祈りではなく、自分を傷つけるための刃になっていた。
「駄目です」
ユウリは即座に言った。
迷いのない、ユウリ自身の声だった。
「罰を受ければ終わるなんて、そんなの逃げです」
「ユウリ……」
「あなたが壊れて、それで全部償ったことになるなら、残された側は何を抱えて生きればいいんですか」
セシリアの肩が揺れる。
ユウリはヴィエントを握りしめたまま、彼女を見据えた。
「私は、この短剣を手放します」
「……ステラのために、ですか?」
その問いに、ユウリは首を振る。
「違います」
短く、きっぱりと。
「ステラのためじゃない。今、目の前で苦しんでいる、あなたのためです。あなたに、生きてここを越えてほしいから。だから私は手放すんです」
誰かの代わりではない。
誰かの影でもない。
ユウリという一人の少女が、自分の意志で選んだ言葉だった。
セシリアの唇が震える。
怨念の冷気より深く、その言葉が胸の奥に刺さったのだと分かった。
「……そんなふうに、言ってもらえる資格など」
「資格で決めないでください」
ユウリは静かに、しかし譲らずに返した。
「私がそうしたいんです。あなたが勝手に、それを罰で塗りつぶさないで」
セシリアは返事を失ったまま、ただユウリを見つめた。
◇
少し離れた場所で、ミナはその背中を見ていた。
――あなたのために、手放すんです。
その一言が、ミナの奥底に沈めていた問いを揺らす。
ミナは自分の掌を見下ろした。
そこには、かつてレイナを傷つけ、世界に銀色の霧を広げた熱の残滓が、今も脈打っている。
これまでの彼女にとって、生きることは与え続けることだった。
差し出し、消耗し、役に立つことでしか、自分の存在を許せなかった。
奪う側であった自分は、受け取る資格などないと、ずっと思ってきた。
けれど今、目の前で年下の少女が、自分の大切な繋がりを誰かのために差し出そうとしている。
私は、奪うことばかり恐れていた。
だから受け取ることから逃げてきたのだ。
ミナはゆっくり拳を握った。
「……私も、受け取りに行きます」
布を繕っていたリナの手が止まる。
「自分が生み出したものの一部を」
ミナは声を震わせながらも、言い切った。
「この世界に残してしまった痛みを。今度は、私の意志で受け取ります。与えて終わるんじゃなくて……逃げずに、引き受けたい」
それは贖罪の言葉に似ていて、けれど決定的に違っていた。
赦されたいからではない。
自分で選び取るための言葉だった。
リナは一本の針を静かに針山へ戻した。
それから三輪車を寄せ、震えるミナの手を、結晶化した右腕でそっと支える。
「一人ではありません」
短い言葉だった。
「綻びなら、私が何度でも縫います。あなたが受け取るものまで、ひとりで抱えなくていい」
ミナは目を見開く。
支えられることに、まだ慣れていない顔だった。
「……リナさん。私、また壊すかもしれません」
「その時は、また直します」
「怖くないんですか」
「怖いです」
リナは淡々と答えた。
「でも、怖いから離すのなら、ここまで来た意味がありません」
静かな声なのに、不思議と揺らがない。
その言葉が、暗闇へ傾きかけていたミナの足元を、確かに支えた。
◇
ななみは白く沈黙した端末を見つめ続けていた。
浸食率。心拍。
外部負荷。観測値。
これまで彼女を支えてきた全てが、そこには何もない。
数値を把握し、事実を整理し、判断を誤らないこと。
それが、あの日何もできなかった自分を否定しないための、唯一の方法だった。
だが今、その画面は空白だ。
この先の浄化が成功する保証は、どこにも表示されない。
「ななみさん」
横からリリカの声がした。
ポケットの中で、琥珀色の小石を指先で転がしている。
ななみはしばらく沈黙したあと、かすれた声で言った。
「……怖いんです」
口にした途端、その一言のあまりの幼さに、自分で驚く。
だが、もう取り繕えなかった。
「確証が欲しかった。数値で説明できるなら、それに従えばよかった。正しいかどうか考えなくて済むから」
端末を持つ指先が震える。
「見えないものを信じて進むなんて、私には向いていないと思っていました。……こんなに、怖いなんて」
リリカは少し笑って、それから同じように小さく息を吐いた。
「私もです」
ななみが顔を向ける。
「いおりちゃんに会いたかっただけなんです。会って、昔みたいに話せたらいいって、それだけだった」
リリカは小石を握る。
「あの頃に戻りたいって気持ちだけで来たのに、いつの間にか世界の命運とか、根源とか、そんなところまで来ちゃってて。正直、全然ついていけてません」
自嘲気味の言葉なのに、逃げる響きはなかった。
「でも」
リリカは一歩、ななみに近づく。
「怖いまま、ここまで来ちゃったんですよね。だったら、今さら上手にできなくても、怖いまま進くしかないのかなって」
励ましではなかった。
同じ場所で震えている者が、ただ事実を差し出しているだけだった。
ななみは一度だけ瞬きをする。
それから、端末の電源を落とした。
青白い光が消え、廃墟の暗さがむき出しになる。
数字に変換されない現実が、冷たく、重く、そこにあった。
「……そうですね」
ななみは小さく頷いた。
「数値はもう、私を動かす理由にはなりません」
管理局の特別執行官としてではなく。
保証を求める観測者としてでもなく。
ただ、ななみ自身として。
彼女は端末を下ろし、自分の足で大地を踏みしめた。
◇
それぞれが胸の奥にある葛藤と向き合い終えたわけではない。
恐怖も執着も、失いたくないものも、何ひとつ綺麗には消えていなかった。
それでも彼女たちは知ってしまった。
迷いをなくした者だけが前へ進めるのではない。
迷いを抱えたまま、それでも選ぶ者だけが、この場所を越えられるのだと。
根源の鼓動が、再び廃墟の底で脈打つ。
いおりはフェスティナレンテに手を置いた。
ユウリはヴィエントを握り直した。
ミナは掌の熱を受け止めた。
ななみは消えた画面から目を離した。
迷いが消えたからではない。
迷いごと進むと決めたから、彼女たちは歩き出せた。
核へ向かうその一歩が、廃墟の沈黙を破った。
第五章:第五話「葛藤」――完
第三作『銀色の旅路』は完結編です。
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、第一作『銀色の結晶』、第二作『銀色の産声』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■銀色の産声――人願で綴る、明日のための戦記。
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