第19話:泣き声が呼んだもの
胸の奥が、ぐしゃりと歪む。
(……クソが)
ギリ、と犬歯が鳴る。
その瞬間、鼻腔をかすめた。
——匂い。
ビッツの瞳が、鋭く細まる。
(……残ってる)
血の匂いではない。
獣でもない。
人間の、それも——嫌な匂い。
油と鉄と、濁った魔力。
(間違いねぇ……王都の連中だ)
思考が一気に冷える。
怒りではない。
焦りでもない。
ただ、確信。
連れて行かれた。
あの女は——美和は。
(……追える)
低く、息を吐く。
空気中に残る、美和の匂いを嗅ぎとる。
匂いは、まだ新しい。
風にも流されていない。
辿れる。
——今なら。
次の瞬間。
ビッツの身体が、弾けた。
地面を蹴る。
森を駆ける。
枝を、岩を、障害を、すべて無視して。
ただ、一直線に。
(行かせるか……!)
風を裂く。
景色が流れる。
それでも、遅い。
(もっとだ……もっと速く……!)
脚に力を込める。
筋肉が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
それでも——止まらない。
(……間に合わなきゃ意味がねぇだろうが!!)
——匂いは、確実に濃くなっていた。
ビッツは地面すれすれに鼻を走らせながら、森の中を駆ける。
(近い……!)
間違いない。
この先にいる。
美和の匂い。
そして——あの、濁った連中の匂い。
枝を蹴り、岩を飛び越え、一直線に進む。
精霊たちが周囲を舞う。
風を押し、道を開き、速度を底上げする。
(もう少しで——!)
視界の先。
木々の隙間が、わずかに開ける。
人の気配。
複数。
——届く。
そう確信した、その瞬間だった。
ぞわり、と。
空気が、変わった。
(……なんだ?)
脚が止まる。
止めたわけじゃない。
“止まらされた”。
森が——ざわめいている。
風が、不自然に渦を巻く。
精霊たちが、一斉に動きを止めた。
笑っていた気配が、消える。
代わりに。
——ざわ、ざわ、と。
不穏な波。
(何が……起きてる)
耳を澄ます。
遠く。
ずっと奥。
この森の中心——
ログハウスの方向から。
微かに、だが確かに聞こえた。
——泣き声。
甲高く。
途切れず。
張り裂けるような。
(……っ!?)
一瞬で理解する。
遥斗だ。
(なんで……!)
あの場所は安全なはずだ。
精霊もいる。
何も起きるはずがない。
なのに。
——泣いている。
ただ事じゃない。
理屈じゃない。
本能が、警鐘を鳴らす。
(……くそっ!!)
歯を食いしばる。
視線は前。
あと少しで届く距離。
だが。
背後から響く、あの泣き声が。
思考を、引き裂く。
(どっちだ……!)
追えば、美和に追いつく。
戻れば、遥斗の元へ行ける。
どちらかしか、選べない。
ほんの一瞬。
迷い。
——次の瞬間。
ビッツは地面を蹴った。
身体は反転。
全力で、森の奥へ。
(……チッ!!)
舌打ち。
だが、足は止めない。
(無事でいろ……!!)
精霊たちが、再び騒ぎ出す。
今度は、導くように。
一直線に、ログハウスへと。
風が背を押す。
木々が道を開ける。
それでも——遅い。
(間に合え……!!)
泣き声が、大きくなる。
近い。
すぐそこだ。
ログハウスが見えた。
扉が、わずかに開いている。
(……っ!)
中へ飛び込む。
そして。
そこに居たのは——
床に座り込み、
顔を真っ赤にして泣き叫ぶ、遥斗の姿だった。
「ぁ……ぁぁ……っ!!」
涙でぐしゃぐしゃの顔。
小さな手が、空を掴むように伸びる。
まるで——
“誰か”を求めるように。
(……無事、か)
その事実に、ほんの一瞬だけ力が抜ける。
だが。
次の瞬間。
空気が、震えた。
ビリ、と。
空間そのものが軋むような感覚。
(……今度はなんだ)
精霊たちが、一斉にざわめく。
恐怖。
焦燥。
明らかに、今までと違う。
遥斗の泣き声が、さらに強くなる。
それに呼応するように——
空が、遠くで唸った。
ー
——魔の森から遥か遠く。
人の踏み入ることすら許されぬ、禁断の地。
長き眠りの底。
大地の奥深くで。
それは——目を開けた。
闇よりも黒い鱗。
山のような巨躯。
ゆっくりと、瞼が持ち上がる。
黄金の瞳が、細く開いた。
——ギロリ。
世界を射抜く視線。
次の瞬間。
轟音と共に、大地が割れた。
黒き巨体が、姿を現す。
翼が広がる。
空を覆うほどの影。
そして——
咆哮。
世界が震えた。
黒龍は、首を巡らせる。
何かを探すように。
感じ取るように。
やがて。
その視線が、定まる。
——魔の森。
遥か彼方。
だが、確かに。
そこへ向けて。
黒龍は、翼を打ち下ろした。
空が裂ける。
巨体が舞い上がる。
向かう先は——
ただ一つ。
魔の森。
——その咆哮は、遥斗の泣き声に応えるようだった。




