第17話:ワンちゃんじゃない
ビッツは、小さく唸ることしかできなかった。
目の前の女――美和は、それをまったく気にした様子もなく、にこにこと笑っている。
「よーしよしよし、大丈夫よ〜ワンちゃん」
(誰がワンちゃんだ)
内心で即座に否定する。
だが声にはならない。
喉が鳴るのは、低い唸り声だけだ。
それが余計に苛立たしい。
「怖がらなくていいのよ〜」
そう言いながら
無闇に近付かず、その場でそっとしゃがみ込む。
(来るな)
それでも反射的に歯を剥き出しにして威嚇するも
あの手には、敵意がない。
分かってしまう。
だからこそ、厄介だった。
何故か心地よい
この女が纏う空気と言うやつか?
これが精霊の愛し子の力?
思わず尻尾を振って腹を出したくなる
そんな空気だ。
獣化した今はそれを殊更、感じる。
気付いた時には、頭を擦り付けていた。
——はっとして、距離を取る。
そして再び唸る。
それを数回繰り返し、獣化を解けば話しが早い!と思い早速、獣化を解こうと試みる。
けれど獣化は一向に解けない。
何故だ!
この女に与えられたフルポーションで体力や怪我は回復してるはず。
なぜ解けない!?
これでは喋れない!と俺は尻尾を床に打ち付ける。
するとその瞬間
びくり、と身体が強張る。
「あ!?ハルくん、尻尾はダメよ!」
ムギュと持たれる自分の尻尾
小さな手でめいいっぱい抱き締め「きゃぁぁはっ!」と笑う姿は本当に愛らしい
じゃなく!しっかりしろ俺!
そんな事より早く知らせないと!と思うも
撫でられる。
優しく、ゆっくりと。
(……なんだこれは……いや、気持ちよすぎるだろ!って違う!!)
どこかで、くすくすと笑う気配がした。
見上げなくても分かる。
——精霊だ。
明らかに、楽しんでいる。
警戒は、解けない。
だが。
拒絶も、できない。
妙に、力が抜ける。
そんな感覚に、ビッツは戸惑っていた。
その時。
「きゃっ」
遥斗が更に笑った。
小さな手をばたつかせながら、こちらへと身体を乗り出す。
(やめろ)
思わず一歩引く。
だが、間に合わない。
小さな顔がビッツの顔まじかに迫りチュッと唇が触れる。
その瞬間瞬時に飛び退くビッツ
その息遣いは非常に荒く、耳はピンッと立ち上がってた。
(……っ)
なんだあの柔らかさ!それに甘い匂い!
あの甘い匂いはなんだ?
魔力の匂い?
流れ込んでくる。
あの感覚。
温かく、柔らかいのに――
異常なほど濃く甘い。
(愛し子の……子供だからか?)
魔力。
それも、ただのものではない。
胸が、じわりと熱を帯びる。
いや、違う。
(高鳴る鼓動……?)
そして抗えないほどの心地よい波動。
意味が分からない。
理解が追いつかない。
だが一つだけ、確かなことがある。
(この赤子は、危険だ)
ただの人間ではない。
断言できる。
愛し子だけでも充分やっかいなのに、その子供もとなると更に厄介事しか思いつかない。
「こらこら、そんなに引っ張っちゃだめでしょ〜」
美和がくすりと笑いながら、遥斗を抱き上げる。
まるで何事もなかったかのように。
この異常を、当然のように受け入れている。
いいや、気付いてない?
(……それより今はこの女だ)
普通じゃない。
あり得ない。
フルポーションを日常のように使い、
この異常な赤子を平然と育てている。
(精霊の愛し子……)
その言葉が、脳裏をよぎる。
だが――
しっくり来すぎて、逆に否定したくなる。
「ちょっとだけ拭かせて
〜」
先程持ってきてたタオルを広げ俺に向かって来る
(頭が痛くなるな……)
「血がいっぱい出てたから気になっちゃって、でも取れないなぁ」
美和がやわらかく言う。
「仕方ない、今度にしよう!ハルくんもうソロソロわんこはおやすみなさいしようか?いっぱい触ったらわんこも疲れちゃう」
その言葉に。
ビッツは、わずかに目を細めた。
(……追い出さないのか)
人間は、もっと冷酷なものだと思っていた。
弱った獣など、見つければ――
利用するか、殺すか。
そのどちらかだ。
少なくとも、こうして。
無償で世話をするような存在ではない。
(……分からない)
理解できない。
この女も。
この赤子も。
この場所も。
すべてが、異質だ。
だが。
完全に拒絶することも、できなかった。
ビッツはその場に腰を下ろす。
まだ警戒は解かない。
視線も逸らさない。
それでも――
先ほどまでより、わずかに距離は縮まっていた。
「ふふ、いい子ね」
美和が嬉しそうに笑う。
(だから、違う……)
再び内心で否定する。
だが――
その言葉に、さっきほどの苛立ちはなかった。
遥斗が美和の胸の中から必死に手を伸ばそうとしてくる。
届かない距離。
それでも、嬉しそうに笑っている。
その様子を見て。
ビッツは、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
(……なんなんだ、ここは)
答えは出ない。
だが。
今はまだ――
(……離れる理由が、見つからない)




