⑧岡賢太の家へ
——けんた!
けんただよ!
あの人が怪しいよ!
突然、刑事の腕にしがみつき、必死で何かを訴える奈緒。
驚いた医師と看護師が、奈緒の腕を掴んだ。
「奈緒ちゃん、どうしたの? 落ち着いて!」
突然、暴れ出した奈緒に、困惑する刑事達。
「おそらく火事の事を思い出して、パニックになってるんですよ! 申し訳ないですけど、今日はお帰り下さい!」
医師に背中を押され、刑事達は退室を余儀なくされた。
廊下に締め出された二人の刑事は、お互いの顔を見合わせた後、仕方なくその場を後にした。
——待って!
待ってよ!
けんたって人!
あの人が、怪しいよぉぉ!
応援に駆けつけた看護師達に、両手両足を押さえつけられる奈緒。
顔を左右に振りながら、声にならない声で、叫び続けるのだった。
それから、一週間が経過した。
奈緒は、声が出せるようになった。
それなのに「けんた」の名前は、誰にも言わなかった。
なぜなら、その数日の間に、ある考えが浮かんだのだ。
奈緒は、病院の図書室にあった、裁判の本を何度も読み返した。
難しい漢字ばかりだったが、辞書を用いて、懸命に理解しようとした。
その結果、もし『けんた』が捕まった場合、裁判がどういった流れになるのかを予測してみた。
『けんた』は、まだ高校生。
火を着けたのは、無人の空き家。
明確な殺意を抱いているわけではない。
おそらく、死刑にはならないのではないか。
そもそも、指紋も採取されていない。
もし『けんた』が、犯行を認めなかった場合、起訴できないのではないか。
それならば……と、奈緒は考えた。
——警察には知らせない。
私が、この手で復讐してやる。
それが、確実に命を奪える方法だ。
あいつが、お父さんの命を奪ったように。
今度は私が、あいつの命を奪う……。
奈緒は、復讐という名の黒い炎を、密かに燃やし続けるのだった。
やがて退院した奈緒は、和夫の親に引き取られた。
時は流れ、奈緒は高校生になった。
その頃から、目に見えて素行が悪くなっていた。
濃いギャルメイクをして、夜の街で遊ぶ事が増えた。
そして、1998年。
奈緒は高校を卒業すると、上京し、真っ先に渋谷センター街に向かった。
そこで、ギャル系が多く在籍するキャバクラに入店した。
そういった店では、学歴は必要なかった。
若さと、容姿の良さがあれば良い。
男の隣りに座り、酒を飲ませ話をするだけで、高額な給与を貰えた。
全ては、お金のため。
そう、奈緒には、お金が必要だったのだ。
探偵に『けんた』を探してもらうための、必要経費だ。
『けんた』に関しては、多少の手がかりはあるものの、ほぼその名前だけで探さなくてはいけない。
時間も費用も、かかるだろう。
奈緒はそう考え、貯金に励むのだった。
1999年9月。
奈緒がキャバクラで働き出して、一年以上が経過した、ある日の事だった。
奈緒は、関内若菜という同じ店で働くギャルと、昼のセンター街を歩いていた。
「私の元彼さー、マジでクソ」
何の脈絡もなしに、唐突に若菜が愚痴り始めた。
かなり苛立っているようだ。
携帯電話のアンテナを、伸ばしたり縮めたりを、繰り返している。
「私より、9コも歳上のくせにさー、マジで頼りないの」
「ふーん」と、やや興味なさげに返事をする奈緒。
「しかもさー。そいつ会社の飲み会で酔っ払って、女の社員にセクハラしたの。結局それでクビ。すごすごと実家へと帰ってったわ。だっせー奴」
「マジでー」と、奈緒は呆れたように笑った。
「でさー、昨日、そいつから電話が来たの。とっくに別れてんのにさ。今さら何を言うかと思ったらさー、ヨリを戻そうとか寝ぼけた事言ってんの。ふざけんなボケッて言って、切ってやったわー」
「ハハッ。ダサいねー、そいつ」
奈緒は苦笑いを浮かべた。
「ほんとだよ。そいつ、一見、好青年だけど女々しいんだよね。酔っ払うとウザいし。付き合わなきゃ良かった」
そう言った後、若菜は周囲を気にしながら、奈緒の耳元でヒソヒソ話をした。
(しかもさー、そいつ……ここだけの話だよ。昔、家を放火したんだって)
「えっ?」
「十年前、大学に落ちた腹いせに、空き家を燃やしたんだって。酔っ払ってた時にそう言ってた。最悪だろアイツ、犯罪者だよ」
「……十年前……?」
——ドクン。
奈緒の鼓動が、大きく跳ねた。
「……? 奈緒、どうしたの?」
「場所は?」と奈緒。
「さあ? △△県じゃない? アイツ、そこで生まれ育ったから。今もそこにいるよ」
当時、奈緒も同じ△△県に住んでいた。
奈緒は寒くもないのに、ガチガチと震え出した。
「その人の名前は?」
「え?」
若菜は、怪訝な顔をした。
「……岡だけど」
「岡? 苗字じゃなくて、名前!」
思わず声を荒げる奈緒。
その剣幕に、若菜は困惑した。
奈緒は固唾を飲んで、次に出でくる若菜の言葉に、耳を傾けた。
やがて、若菜の唇が動いた。
「……けんた……だけど」
——けんた。
その三文字は鋭い槍となり、奈緒の心臓を突き刺した。
見えない血が溢れ出す。
奈緒は、痛みを堪えるように、しゃがみ込んだ。
過呼吸のように、息苦しくなる。
「どうしたの、奈緒?」
心配した若菜が、奈緒の顔を覗き込む。
奈緒は、息を整え顔を上げた。
「眼鏡してるよね?」と、若菜に問う。
若菜は目を丸くした。
「え? あいつを知ってんの?」
「ねえ若菜! その人、眼鏡してるよね!」
怒りを含んだ口調で、もう一度訊く奈緒。
「うん……眼鏡かけてた」
「頬っぺたに、大きなホクロもあるよね!」
奈緒がそう言うと、若菜は幽霊でも見たような顔をした。
やがて頷いた。
「……うん、ホクロがあった……」
——間違いない。
奈緒は一つ深呼吸をして、若菜に訊く。
「……その人の住所、分かる?」
「うん……。アイツ今年、年賀状送ってきたから、住所も書いてあったと思うけど……」
その後、奈緒は若菜の住むアパートまで押しかけた。
若菜は終始、戸惑っていた。
理由を訊いても、奈緒は何も話さなかった。
兎にも角にも『けんた』こと、岡賢太の住所を知った奈緒は、真っ先にホームセンターに向かった。
そこで包丁を購入すると、新幹線で岡賢太のいる△△県へと向かった。
新幹線に乗っている間、奈緒は考えていた。
岡賢太の家は、かつて奈緒と和夫が暮らしていた町から、かなりの距離がある。
きっと岡賢太は、知り合いに目撃されないよう、遠い場所を選んだのだろう。
そして町を徘徊し、手頃な空き家を見つけ、憂さ晴らしのため火を放った。
そんなところだろう。
なんて身勝手な男だろうか。
奈緒は、憎悪の念を膨らませながら、拳を強く握りしめた。
数時間後、岡賢太の年賀状に書かれていた、△△県◇◇市に到着した。
しかしここで、奈緒は足止めを食らった。
突然、バケツをひっくり返したような大雨が、降り出したのだ。
奈緒は急いで、駅前に停まっていたタクシーに乗ろうとした。
だが運転手に、道が冠水していて危険なので、車が出せないと言われてしまう。
駅前から動けなくなった奈緒は、仕方なく近くのホテルに、一泊する事にした。
ホテルのロビーには電話帳と、地図帳が置いてあった。
奈緒は、念のため地図帳を開いて、住所から岡賢太の家を探した。
見つけると、その頁を破り取る。
さらに、ホテルマンに赤ペンを借り、地図上にある岡賢太の家を丸で囲む。
その横に『岡』とまで、付け加えた。
絶対に岡賢太を見つけるという、強い意志を込めて。
翌日、早朝。
雨が上がると奈緒はホテルを後にし、今度こそタクシーで、岡賢太の家へと向かった。
だが、岡賢太の家まであと少しのところで、進めなくなった。
大雨の影響で、川が氾濫しているのだ。
運転手は橋を渡るのは危険と判断し、遠回りになるが、迂回する事を提案した。
しかし、奈緒にしてみれば、一刻も早く岡賢太の家に辿り着きたい。
そこで奈緒はタクシーを降り、徒歩で向かう事にした。
昨日、ホテルで破り取った地図を頼りに、奈緒は岡賢太の家へと向かうのだった。
つづく……




