11.十年越しの復讐
奈緒は、ゆっくりと立ち上がり、男へと歩を進めた。
奈緒が近づくと、男は怪訝な顔をした。
それもそのはず。
奈緒は、バスタオルを羽織っている。
髪も乱れていて、まるで風呂上がりのようだった。
男は、奈緒が救出された事を知らない。
土砂災害を一目見たくて、たった今、この場所に着いたばかりだ。
奈緒は、険しい目つきで、男の顔を直視した。
「……岡賢太さん……ですか?」
男の口から「えっ?」と、声にならない息が漏れた。
目を細め、奈緒の顔に注目する。
この人は誰だろう?
男は、そんな顔をした。
過去の記憶を辿るが、どうしても思い出せない。
そもそも、こんな美人、出会ったら忘れるわけがない。
男は、僅かに首を捻った後、やっと口を開いた。
「は、はい……そうですけど……すいません、どちら様でしたっけ?」
一瞬、奈緒が震えた。
直後に、ジワジワと全身が熱くなるのを感じた。
黒い憎悪の炎が、奈緒の心を燃やし始めたのだ。
——やっと……やっと会えた……。
お父さんを殺した男。
私の全てを、奪った男。
奈緒は、呟くように声を出した。
「放火……」
「えっ?」
「放火……したよね?」
「ホーカ?」
岡賢太が、眉間に皺を寄せた。
奈緒の口調は一変し、ハッキリとした声を出した。
「大学を落ちた腹いせに、火をつけたよね!」
——!
岡賢太の心臓が、瞬時に凍りついた。
血の気が失せ、顔が青ざめる。
「えっ……えっと……何の事ですか? あの……ちょっと、何言ってるのか分からないな……ははは」
声が震え出した。
明らかに、動揺している。
「十年前の◇◇市の放火事件、あんたでしょ?」
とうとう岡賢太は、膝まで震え出した。
「……死人が出たよね?」と奈緒。
岡賢太は、何度も首を捻った。
何の話だ? といった態度を取り続けるしかなかった。
そんな岡賢太の額から、冷や汗が流れ出したのを、奈緒は見逃さなかった。
「その死んだ人……私の、お父さんなんだけど」
——!
岡賢太は逸らしていた目を、奈緒に向けた。
黒目が泳いでいる。
奈緒は一歩、詰め寄った。
「ねえ? なんか私に言う事ないの?」
まるで、奈緒に心臓を鷲掴みされたように、岡賢太は胸が苦しくなった。
「い……いや、だから……何の話? 人違いじゃない? 君の言ってる事……全然、意味が分からない……」
「若菜に聞いたの。あんたが付き合ってた、関内若菜!」
岡賢太は、ギョッとした。
……もう、この子は全てを知っている。
もしかしたら、警察にも知らせているのでは?
そう思うと、岡賢太は立ちくらみがした。
まるで悪い夢を見ているようだった。
「い、いや……ちがう、ちがう……。燃やすつもりだったのは空き家で……冗談半分で、ちょっと火をつけたら……なんか急に、風が強くなって……」
岡賢太は、狼狽しながら後退りした。
「……今、認めたね?」
「えっ?」
「今、火をつけたの、認めたよね?」
しまった、余計な事を口走ってしまった。
岡賢太は、そんな表情をして、また一歩後ろに下がった。
「いやいやいや! し、知らない、知らないって! 適当に言っただけ! あの……ちょっと用事があるから! もう行くからね!」
岡賢太は、その場から立ち去ろうした。
「どこにも行けないよ……」
「え?」
奈緒の不気味な言葉に、岡賢太が振り向いた。
「もうあんたは、どこにも行けないって」
「はあ? 何言って……」
「だって……あんた、ここで死ぬから……」
奈緒は羽織ったバスタオルの隙間から、ギラリと光る物を出した。
岡賢太は、それを見て息が詰まった。
包丁だ。
尖った先端が、岡賢太へと一直線に向けられる。
「ちょ、ちょっと、嘘でしょ……?」
岡賢太は、さらに後退りした。
ズボッ!
「うわっ、足がっ!」
後方を確認していなかったため、岡賢太の左足が、ぬかるんだ地面にはまってしまった。
それは足首まで、深く沈み込んだ。
動けない岡賢太に向かって、奈緒が叫ぶ。
「死んで、償えぇぇぇぇ!」
鬼の形相をした奈緒は、包丁を突きつけたまま突進した。
岡賢太は、慌てふためいた。
「や、や、やめてくれ……!」
グサッ!
「うぐっ……!」と、苦痛の声が漏れた。
奈緒の持つ包丁が、腹部に突き刺ささったのだ。
やがて溢れ出した血は、包丁を握る奈緒の両手を、赤く染めていく。
きつく目を閉じていた奈緒が、ゆっくりと瞼を開いた。
「ううう……」
奈緒は唸った。
「何で……?」
奈緒の目からは、涙が溢れ出る。
涙は頬を伝い、血塗られた包丁にポトリと落ちた。
「何で……? ねえ、何で……?」
——どうして、こんな事に……?
十年越しの復讐が……どうして……?
奈緒は、復讐を果たす事が出来なかった。
なぜなら、包丁を刺した相手は岡賢太ではなく、真一だったからだ。
◇ ◇ ◇
「足元、気をつけて下さいね」
土砂に埋もれた家から救助された真一に、作業員が言った。
「どうも、ありがとうございました」
一礼をした真一の身体から、救助ベルトが外された。
すると、何人かいる作業員のうちの一人が、真一に長靴を用意した。
真一が足を通していると、その作業員が話しかけてくる。
「実は僕なんですよ。あの穴から、あなた達を見つけたのは」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。何か音がして、行ってみたら堆積していた土砂が沈んでるじゃないですか。そうしたら小さな穴があって、微かに声がしたんですよ。あの時は本当に、びっくりしましたね!」
男性は、その時の状況を思い出しながら、興奮気味に説明してきた。
「それはどうも。見つけて下さって、本当に、ありがとうございます」
真一が深々と頭を下げていると、奈緒をテントへと送り届けた、あの若い作業員が近付いた。
真一にタオルを手渡すと、遠くにあるテントを指差した。
「あそこのテントで、休んでいて下さい。ほら、先ほど救出した女性もいますから」
真一は、彼が指差す先を見た。
確かに奈緒らしき女性が、バスタオルを羽織って立っているのが見えた。
「どうも親切に、ありがとうございました」
真一は若い作業員と、穴を見つけてくれた作業員に、何度も頭を下げた。
そして、奈緒のいるテントへと向かった。
歩いている途中で真一は、おや? と思った。
バスタオルを羽織った奈緒が、小柄な男性と話をしている。
服装からして、作業員ではない。
真一は、目を凝らしながら近づいた。
あの人は、確か……。
真一は愕然とした。
奈緒と会話しているのは……岡賢太だった。
そういえば……。
部屋から救出される時、彼女は包丁が入ったバッグを手にしていた。
真一は、慌てて駆け出した。
包丁を持った奈緒が、憎き賢太さんに会ったなら、彼女の取る行動は一つだ!
止めなければ!
そんな思いで、真一は走る。
案の定、奈緒は包丁らしき物を持っていた。
やばいっ!
心の中で叫ぶ、真一。
なんとか間に合った。
素早く二人の間に、割り込んだのだ。
しかし直後に、真一は腹部に鈍い痛みを覚えた。
グサッ!
「うぐっ……!」
小さく唸る真一は、目の前が暗くなった。
今まで感じた事のない痛みだった。
うまく呼吸が出来ない。
「どうして……?」
奈緒は、刺した相手が真一だと気付くと、涙を滲ませた。
——どうして……?
どうして、私の邪魔をするの?
どうして、岡賢太を庇うの?
こんなチャンス……もう二度とないのに……。
奈緒は絶望した。
心の底から絶望した。
復讐を果たせなかった上、真一を刺してしまった。
一方の岡賢太は驚愕のあまり、尻餅をついた。
女性に、包丁を向けられた事。
突然、目の前に男の背中が現れた事。
しかも包丁は、その男に刺さったようだ。
背中を向ける男の股の間から、滴り落ちる血が見えた。
「ひっ……ひぎっ……」
岡賢太は、情けない悲鳴を漏らしながら、逃げ出そうとした。
ぬかるみに入った足を、両手で引っこ抜くと、彼は這うようにして去っていった。
そんな岡賢太の姿が、奈緒の視界に入る。
「……なんで? なんで邪魔すんのよ……あいつ、逃げてくじゃん……」
ガックリと肩を落とした奈緒は、声を震わせた。
真一は、自らの腹部に刺さった包丁を掴みながら、苦しそうに口を開いた。
「こ……これ以上、奈緒さんが……不幸な道に進まないように……」
——不幸な道に進まないように……?
奈緒は、ハッとした。
——その言葉は……。
何処かで……。
何処かで、聞いた事がある……。
そうだ!
お父さんが、最後に言った言葉だ!
《奈緒が不幸な道に進まないように、空の上から見守っているからな……》
——あの時、私が聞き取れなかった、最後の言葉。
それは、この言葉だった。
間違いない。
奈緒は、伏せていた顔を上げた。
その瞬間、奈緒の呼吸が止まった。
目の前にいるのは真一ではなく、和夫だったのだ。
奈緒は驚きのあまり、目を剥いたまま呆然とした。
すると、和夫の背後に、メラメラと炎が広がった。
息苦しい熱風と煙の匂いを、奈緒は確かに感じた。
トイレの小窓を挟んで抱きしめ合った、あの時のように。
今は包丁を挟んで、二人は抱きしめ合うように寄り沿っている。
奈緒はゆっくりと、和夫の胸に頭を埋めてみた。
「……お父……さん……」
つづく……




