桜花幕府怪譚集 第二集 ―煙坂鳴海語り―
夜の更けた頃のことでございます。
春も名残の季、桜の花びらが風に舞う道すがら、ひとりの旅の男が、酒の香を纏いながらふらりと歩いておりました。
ふと、路の端にほの明かり。
目をやれば、桜の下にひとりの女。
白き衣に桜をあしらい、手には龍髭を抱えております。
女は弦を爪弾きながら、静かに微笑み申されました。
「まあ、こんな夜更けにお人とは珍しうございますね。」
その声のやさしさに誘われ、男は傍らに腰を下ろしました。
龍髭の音は、風に紛れながらも不思議に耳に残り、まるで魂の奥を撫でるようでございました。
女――名を煙坂鳴海と申す――が、
そっと弦を鳴らし、語りはじめたのでございます。
第四話 花守の童
むかし、この桜花の里に、花を守る童がおりました。
声を持たぬ子で、朝な夕な、散り落つ花びらを拾い集め、地に埋めていたと申します。
人々はその子を気味悪がり、「花守」とのみ呼び名を与えておりました。
ある春の宵のこと、村の桜が一夜にして黒ずみ、花も香も絶えたのです。
嘆く村人をよそに、花守はただ一人、社の前へ歩み出て、
龍髭の枝を折り、花の舞を奉げたと伝わります。
夜明けとともに桜は再び花開き、けれど童の姿はそのまま、朝霧の中に消えて見えぬまま。
今も春の宵には、桜の根方より、かすかな龍髭の音が聞こえると申します。
第五話 影灯籠の里
山深く、霧の絶えぬ谷あいに、「影灯籠」と呼ばれる不思議な灯がございました。
人が火を入れずとも夜な夜な明かりがともり、灯のもとに立つ者の影を、地に長く引くという。
その影は、ただの影にあらず。
人の心に潜む闇を映し、恐れを形に変えると申します。
ある侍が噂を試そうとその里を訪れ、夜、灯籠の前に立ちました。
光の中に映った己が影――
それは血に染まった自らの手を持つ姿でございました。
侍は叫び、刀を抜き放ち、影を斬らんといたしましたが、
刃は空を裂き、そのまま己の喉を断ったと申します。
翌朝、灯籠の下には侍の亡骸もなく、ただ地に黒々とした影だけが、夜明けの陽にも消えなかったとか。
第六話 助けられた狐
ある折のこと。
山路をゆく旅の芸人が、道端に血を流す一匹の狐を見つけられました。
脚を罠に痛め、身を震わせ、息も絶え絶えの有り様でございました。
憐れに思うて、芸人は懐の乾き飯を取り出し、その口へ少しずつ運ばれました。
されど飯のみでは命も保てぬと見て、急ぎ山を下り、麓の村へと向かわれた。
夜もすでに更け、人々は戸を閉ざしておりましたが、芸人は門前に額をつけ、声をかけて願い出たのです。
「どうか、癒えの草を、ひとつまみでもお恵みくだされ。」
その切なる願いに打たれた老薬売りが、戸を細く開き、草束をひとつ手渡しながら申されました。
「おぬしの情け、天が見ておろう。」
芸人は狐のもとへ戻り、汗まみれの顔を布で拭うのも忘れ、薬を塗り、包帯代わりに自らの衣を裂いて巻いたと申します。
狐は目を細め、かすかに鳴きて、やがて息を整えた。
朝になれば、その姿はもう見えず、ただ風の香だけが残ったとか。
―幾年の後。
旅芸人が、とある宿に逗留していた折、夜、龍髭の音に誘われ、ふと目を覚ましました。
そこに女がひとり、静かに弦を弾いていた。
白き衣に桜の刺繍をまとい、微笑みながら申されました。
「やはり、あの時と変わらずお優しい手をしていらっしゃいますね。」
!!
旅芸人がはっと顔を上げると、女の姿は花の香を残して淡く揺らぎ、消え失せた。
――朝。
男は旅籠の布団の中で目を覚ましました。
手のひらを開けば、ほのかに花の香が残り、枕元には、見たこともない希少な木の実がひとつ置かれておりました。
窓が開き、風が吹く。
その風に乗って、白い毛が一筋、ふわりと舞い出た。
―桜狐の、尻尾の毛。




