桜花幕府怪譚集 ― 煙坂鳴海語り ―
序
――宵の更けたる花暦京の裏路地。
酒と笑いの名残が漂う、春の夜のこと。
酔いどれた一人の男が、灯の消えた屋台の前で足を止めた。
そこに、奇妙な姿の男がひとり座していた。
長き黒衣、頭巾の影より覗く瞳は月明かりのよう。
膝には奇妙な弦楽――龍髭と呼ばれる古の楽器。
「おう、兄さん。 こんな夜更けに弾き語りとは、風流じゃねぇか」
酔いの勢いで声をかけると、その男は口の端をわずかに歪めた。
「風流か、はたまた未練か……。
まあ、どちらにせよ、人が聴くには少々“冷たい”語りぞ」
名を問えば、曰く――
「われは煙坂鳴海。
亡き声を弾く、“幻語語り”よ。」
そして、龍髭の弦がひとりでに鳴った。
一の話 桜狐の灯
「聞きなされ。桜花幕府の北、常霧の丘にまつわる話ぞ。」
――夜ごと桜が自ら光を放つ丘があった。
人は“狐桜”と呼び、誰も近づかぬ。
ある春の夜、若き足軽が恋人に花を贈らんとて、
丘に登り、光る花をひとひら折った。
すると根の下より、鈴の音ひとつ。
枝の上に白き女の影が立ち、微笑んだ。
「その花は、契りの証ぞ――返しておくれ」
男は見惚れ、差し出す手の先に花びらが散る。
次の瞬間、無数の狐火が空へ舞い上がり、丘を包んだ。
翌朝、男は白狐の毛皮を抱いたまま息絶えていた。
鳴海は龍髭を撫でながら、静かに言う。
「人の恋は灯、狐の恋は焔。
灯を焔に寄せれば、燃え尽きるは理ぞ。」
弦がひとつ、しめやかに鳴った。
二の話 城下の鏡売り
「次は、花暦京の城下町にて語られる話じゃ。」
夜明け前、ひっそりと現れる鏡売りの婆。
その鏡は、顔を正しく映さぬと評判だった。
笑う者は泣き、泣く者は眠る。
人の“裏の顔”を覗く鏡――そう噂された。
ある武家の娘が面白半分で買い求め、
夜更け、覗き込むと鏡の中の己が笑っていた。
――嘲るように、嬉しげに。
恐れをなした娘は鏡を井戸へ投げ込む。
翌朝、井戸の底より笑い声がした。
覗けば、水面に娘の顔が浮かび、
その瞳だけが、鏡の中のそれと同じく笑っていた。
「鏡は顔を映す器にあらず。
人の名残を留めるもの。
忘れた顔ほど、深く沈む。」
鳴海の龍髭が、風に揺れた。
三の話 桜影の御前試合
「最後の話は――幕府御前の庭にて行われた剣比べよ。」
満開の桜の下、名うての剣士が並ぶ中、
一人、顔を布で覆った浪人があった。
試合が始まると、浪人は影を舞うように動き、
相手の影だけを斬り落とした。
斬られた者は血も流さず、ただ影が地より消えた。
残るは、花弁の舞う音のみ。
やがて浪人は将軍の前に進み出、
布を解くと――顔はなく、桜の花びらがひとひら舞い落ちた。
「影を斬る者は、己の影をも失う。
影なき者こそ、真の“桜影”に至るものなり。」
鳴海の声は、春の夜風に溶けた。
…
男は息をのんだ。
酔いも醒め、夜はすでに更けていた。
鳴海は龍髭をそっと抱え直し、微笑んだ。
「さて――お話のお代を、頂かねばなるまい。」
「代? 銭なら持ち合わせが――」
鳴海は首を振る。
月の光が、その顔を淡く照らした。
その瞬間、皮膚が裂け、髪が桜の花弁となり、
瞳の奥から無数の狐火が溢れ出す。
「いや。お話のお代は――あなたの魂で。」
男の意識は、そこまでで途切れた。
朝。
男は自宅の布団の中で目を覚ました。
汗びっしょり、頭はぼんやり。
「……夢、だったのか?」
部屋の窓が開き、風が吹く。
その風に乗って、白い毛が一筋、ふわりと舞い出た。
――桜狐の尻尾の毛。
それは、春の風に乗って、静かに空へと消えた。




