《ゴブリン観察報告書 第三部:帰還者の証言記録(改訂・生理依存分析稿)》
著者:聖王国サイラスウッド・コンコード 聖機院生態学区 魔物生理部門記録再編委員会
原著者:エルド・フェーン博士(消息不明)
記録番号:GA-4137-B
題目:「帰還者マリス・フェルノにおける Goblinus addictus 由来物質依存および行動的回帰傾向の観察」
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序文
本稿は、聖機院生態学区魔物生理部門の主任研究員であったエルド・フェーン博士が残した未完の研究記録、および博士の行方不明後に発見された研究断片をもとに、第三者の手によって再構成されたものである。
博士は前報「Goblinus addictus 観察報告書 追補 - ヴァルナ渓洞群体消失事件」(GA-4137-A)の提出直後、再調査任務中に消息を絶った。
残された資料は断片的かつ損傷が激しく、内容の一部は後方研究局による補筆・再解析を経ている。
以下に示す報告は、博士の原文と復元記録を統合した再編稿である。
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第一節 概要
本稿は、ヴァルナ渓洞群体観察任務において発生した調査団失踪事件の後、唯一帰還した観察員マリス・フェルノに見られた生理的および精神的異常を記録したものである。
彼女の体内からは、Goblinus addictus 群体周辺でのみ確認される未知の微量化学物質が検出された。
この物質は、前報でフェーン博士が報告したナークリーフ由来体液中の成分とほぼ同一であり、神経伝達物質に対して持続的かつ累積的な作用を示す。
博士はこれを「環境的感染」と呼び、単なる生理反応ではなく、群体との“同調現象”の一端である可能性を指摘していた。
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第二節 症状および行動観察
帰還直後のマリスは、周期的な体温上昇、嗅覚刺激への過敏反応、そして陶酔に近い神経的高揚を示した。
彼女は観察の過程で「あの香りがしないと落ち着かない」「ここでは息が浅い」と繰り返し発言した。
また、閉鎖空間における睡眠中に「彼らが呼んでいる」との寝言を記録されている。
これらの症状は薬物的依存よりも、感覚記憶を媒介とした条件反射的な情動反応に近く、博士は「快の帰属化」と表現していた。
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第三節 聴取記録抜粋
以下は、博士が行った聴取の記録石板に残されていた文面の一部である。
「彼らのいる場所の空気は重いのに、息を吸うと軽くなるんです。」
「思い出すと身体が温かくなる。ここでは、それが足りない。」
「博士は言いました。あれは毒ではなく習慣だと。たぶん私も、もう戻れない。」
「いずれ帰ると思います。向こうの方が自然なんです。」
博士の注釈には、「感情の再生ではなく、刺激記憶そのものの再現反応」「個体意識の外部化」といった語が残されていた。
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第四節 化学分析結果
博士の残した検査記録および再現分析により、以下の特徴が確認された。
一 ドーパミンおよびオキシトシン様物質の周期的増減。
二 未知のアルカロイド化合物による神経受容体刺激の持続化。
三 Goblinus 体液成分(仮称 G-アミン)と同一のスペクトルを持つ微粒子痕跡。
この G-アミンは、神経伝達経路において「快感記憶の固定」を引き起こす作用を持ち、依存症状を化学的条件反射として再現させると推測される。
博士はこれを「神経的共生」と定義し、個体の情動構造そのものを群体に同化させる要因であると考えていた。
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第五節 帰還後の行動と失踪
隔離観察の終了を目前に、マリスは再び「渓洞の匂いがする」と報告した。
翌日、封鎖施設外壁に爪痕で刻まれた文が発見された。
「空気の向こうに、彼らの呼吸がある。」
その夜、彼女は姿を消した。足跡はヴァルナ渓洞方向へ向かい、途中で断たれている。
その後の現地観測では、魔素反応の微増とともに、低周波の女性音声が断続的に記録された。
音声波形の一部はマリスの声紋と一致し、さらに博士自身の声質とも近似していることが後に判明した。
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第六節 考察
本症例は、Goblinus addictus 群体における生理的同化現象を裏付けるものであり、博士が提唱していた「快による帰属理論」の実証的証拠とみなされる。
博士は最後の記録で次のように述べている。
「群体は恐怖によらず、快楽によって個を取り込む。その結合は意志を越え、生理の深部へと沈む。」
博士の失踪後も、ヴァルナ渓洞における低周波反応は断続的に続いている。
最近の観測では、博士の声質と一致する波形が追加的に検出され、現地の封鎖区域は引き続き警戒下に置かれている。
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結語
本記録は、エルド・フェーン博士の研究遺稿をもとに再構成された唯一の資料である。
博士の行方は今も不明であり、発見された音声記録の中には博士の名を呼ぶ女性の声が混在している。
それがマリス・フェルノのものであるかは断定されていない。
「学問の光は深淵をも照らすが、照らされた深淵は光の主をも呑み込む。
我々はその深さを知りながら、なおも灯を掲げねばならない。」
――聖機院記録再編委員会代表 ルーデン・アルマーノ




